アーベル圏 (アーベルけん、英 : abelian category [ 注 1] )とは(コ)チェイン複体 のホモロジー /コホモロジー と層のコホモロジー の双方を展開するのに十分な構造を備えた圏 である。
アーベル圏となる圏の具体例としてはアーベル群の圏 や環上の加群の圏 、アーベル圏上の(コ)チェイン複体の圏、およびアーベル圏に値を取る前層や層の圏が挙げられる。
アーベル圏の著しい性質として加法圏 になる事、すなわちアーベル圏の対象間の射のクラス
H
o
m
(
A
,
B
)
{\displaystyle \mathrm {Hom} (A,B)}
がアーベル群になる(事に加え、いくつかのよい性質を満たす)事が挙げられる。
アーベル圏が小さい圏 であればアーベル圏は加群の圏に埋め込める(ミッチェルの埋め込み定理 )。よって特に加群の圏で成立する事実、例えば5項補題 や蛇の補題 のようにホモロジー代数 を展開する上で必須となる補題を満たす。
マックレーン [ 1] はグロタンディーク が1958年の論文[ 2] でアーベル圏を定義したとするが、別の文献[ 3] によれば、アイレンベルグ の弟子の[ 3] [ 4] デイビット・バックズバウム [訳語疑問点 ] が1955年の博士論文[ 5] で「exact category 」の名称でこの概念を提案し、これを知ったグロタンディークが「アーベル圏」という名前でこの概念を広めた。
加法圏
上述のようにアーベル圏の著しい性質として加法圏になる事が挙げられるので、本節ではアーベル圏を導入する準備として、加法圏の定義とその性質を述べる。
定義
加法圏は以下のように定義される:
特徴づけ
加法圏の1番目の条件は以下のようにも言い換えられる:
加法圏の2番目の条件は以下のようにも言い換えられる:
ここで複積とは以下のように定義される概念である:
実は次が成立する:
定理 ―
C
{\displaystyle {\mathcal {C}}}
を加法圏とし、A 、B を
C
{\displaystyle {\mathcal {C}}}
対象とするとき、A とB の積、余積、複積は一致する[ 12] 。
アーベル圏
本節ではまずアーベル圏の定義を述べ、次にアーベル圏が加法圏になる事を見る。そしてアーベル圏上のホモロジー代数について述べ、最後にアーベル圏が小さい圏であれば加群の圏に埋め込める事を見る。
定義
アーベル圏は以下のように定義される。
環 R をfixするとき、左R -加群の圏 R -Mod はアーベル圏である[ 14] 。よって特に
Z
{\displaystyle \mathbb {Z} }
-加群の圏、すなわちアーベル群の圏 Ab はアーベル圏である[ 14] 。それ以外の具体例は後述 する。
像と余像
アーベル圏
C
{\displaystyle {\mathcal {C}}}
では射
f
:
A
→
B
{\displaystyle f~:~A\to B}
の射の核と余核の存在が保証されているので、以下の定義ができる:
C
{\displaystyle {\mathcal {C}}}
がR -加群の圏の場合はf の余核C は
C
=
B
/
f
(
A
)
{\displaystyle C=B/f(A)}
なので、
c
:
B
→
B
/
f
(
A
)
{\displaystyle c~:~B\to B/f(A)}
の核は通常の意味でのf の像
f
(
A
)
{\displaystyle f(A)}
に一致する。一般のアーベル圏の場合も、像k は圏論的な意味での像の定義 を満たす[ 15] 。
像と双対的に余像も定義できる:
「核の余核」という定義より、
C
{\displaystyle {\mathcal {C}}}
がR -加群の圏の場合、余像は通常の意味での余像
A
/
K
e
r
f
{\displaystyle A/\mathrm {Ker} f}
に一致する。一般のアーベル圏の場合も圏論的な意味での余像の定義も満たす。
単射と全射
アーベル圏では単射と全射を定義でき、これらはそれぞれモニック射、エピック射に一致する:
アーベル圏は加法圏
アーベル圏の重要な性質として、アーベル圏が加法圏になる事が挙げられる:
アーベル圏の定義から、零対象の存在性と積の存在性は明らかに従うので、
H
o
m
(
A
,
B
)
{\displaystyle \mathrm {Hom} (A,B)}
にアーベル群の構造が入ることのみ示せば良い。ここでは
H
o
m
(
A
,
B
)
{\displaystyle \mathrm {Hom} (A,B)}
上の加法の定義を述べるにとどめ、加法がアーベル群の公理を満たすことの証明は略す。
準備
H
o
m
(
A
,
B
)
{\displaystyle \mathrm {Hom} (A,B)}
に加法を定義するためにいくつか記号を定義する。アーベル圏
C
{\displaystyle {\mathcal {C}}}
の対象C 、A に対し、A とA 自身との積を
A
←
p
1
A
×
A
→
p
2
A
{\displaystyle A{\overset {p_{1}}{\leftarrow }}A\times A{\overset {p_{2}}{\rightarrow }}A}
とし、
f
1
,
f
2
:
C
→
A
{\displaystyle f_{1},f_{2}~:~C\to A}
を2つの射とするとき、
f
1
×
f
2
:
C
→
A
×
A
{\displaystyle f_{1}\times f_{2}~:~C\to A\times A}
such that
p
1
∘
(
f
1
×
f
2
)
=
f
1
{\displaystyle p_{1}\circ (f_{1}\times f_{2})=f_{1}}
,
p
2
∘
(
f
1
×
f
2
)
=
f
2
{\displaystyle p_{2}\circ (f_{1}\times f_{2})=f_{2}}
となるものが積の普遍性 から一意に存在する。同様に余積
A
→
ι
1
A
⨿
A
←
ι
2
A
{\displaystyle A{\overset {\iota _{1}}{\rightarrow }}A\amalg A{\overset {\iota _{2}}{\leftarrow }}A}
と2つの射
g
1
,
g
2
:
A
→
B
{\displaystyle g_{1},g_{2}~:~A\to B}
に対し、射
g
1
⨿
g
2
:
A
⨿
A
→
B
{\displaystyle g_{1}\amalg g_{2}~:~A\amalg A\to B}
such that
(
g
1
⨿
g
2
)
∘
ι
1
=
g
1
{\displaystyle (g_{1}\amalg g_{2})\circ \iota _{1}=g_{1}}
,
(
g
1
⨿
g
2
)
∘
ι
2
=
g
2
{\displaystyle (g_{1}\amalg g_{2})\circ \iota _{2}=g_{2}}
となるものが余積の普遍性から一意に存在する。
加法の定義
A 、B をアーベル圏
C
{\displaystyle {\mathcal {C}}}
の2つの対象とすると、自然な写像
A
⨿
B
→
A
×
B
{\displaystyle A\amalg B\to A\times B}
は同等射になる[ 19] 。そこでこれら二つを同一視し、2つの射
f
,
g
:
A
→
B
{\displaystyle f,g~:~A\to B}
に対し、
f
+
L
g
:=
(
f
⨿
g
)
∘
(
i
d
A
×
i
d
A
)
:
A
→
B
{\displaystyle f+_{L}g:=(f\amalg g)\circ (\mathrm {id} _{A}\times \mathrm {id} _{A})~:~A\to B}
f
+
R
g
:=
(
i
d
A
⨿
i
d
A
)
∘
(
f
×
g
)
:
A
→
B
{\displaystyle f+_{R}g:=(\mathrm {id} _{A}\amalg \mathrm {id} _{A})\circ (f\times g)~:~A\to B}
とすると[ 注 3] 、以下が成立する:
上記の定理からアーベル圏は加法圏である事が従う。
ホモロジー代数
アーベル圏には零対象0 があり、しかも像、核、および余核を定義できるので、アーベル圏
C
{\displaystyle {\mathcal {C}}}
上のチェイン複体
(
A
i
,
∂
i
)
i
∈
Z
{\displaystyle (A_{i},\partial _{i})_{i\in \mathbb {Z} }}
を
⋯
→
∂
i
+
2
A
i
+
1
→
∂
i
+
1
A
i
→
∂
i
A
i
−
1
→
⋯
{\displaystyle \cdots {\overset {\partial _{i+2}}{\to }}A_{i+1}{\overset {\partial _{i+1}}{\to }}A_{i}{\overset {\partial _{i}}{\to }}A_{i-1}\to \cdots }
such that
∂
i
−
1
∂
i
=
0
{\displaystyle \partial _{i-1}\partial _{i}=0}
for
∀
i
{\displaystyle \forall i}
により定義でき、さらにその完全性
I
m
∂
i
+
1
=
ker
∂
i
{\displaystyle \mathrm {Im} \partial _{i+1}=\ker \partial _{i}}
for
∀
i
{\displaystyle \forall i}
を定義できるなど、ホモロジー代数 を展開するに十分な性質を満たしている。
特にホモロジー代数で必須となる以下の補題はアーベル圏でも成り立つ:
R -加群の圏への埋め込み
アーベル圏は具体圏 (英語版 ) とは限らないので、一般的にはアーベル圏の対象A に対して「A の元」という言葉は意味を持たない。しかしアーベル圏が小さい圏 であれば、アーベル圏はR -加群の圏に埋め込むことができ、したがって埋め込み先で「A の元」を考える事ができる[ 24] :
定理 (ミッチェルの埋め込み定理 ) ― アーベル圏
C
{\displaystyle {\mathcal {C}}}
が小さい圏 であれば、ある環R が存在して
C
{\displaystyle {\mathcal {C}}}
から左R -加群の圏R -Mod への共変関手
F
:
C
→
R
-
M
o
d
{\displaystyle F~:~{\mathcal {C}}\to R{\text{-}}\mathbf {Mod} }
で充満かつ忠実 でしかも完全(後述)なものが存在する[ 25] [ 注 4] 。
ここで「完全」は以下のように定義する:
なお、関手が完全であれば、3項のみならず任意の長さの完全系列に対して同様の事が成り立つ事を容易に示せる。
上記の定理からわかるように、アーベル圏の図式 に関する定理を示したい場合はR -加群に埋め込んだ上でその定理を証明する事ができる[ 25] 。よってR -加群の図式に対して成り立つ性質、例えば前述の5項補題や蛇の補題は任意のアーベル圏で成立する。
具体例
前述のように環 R に対し左R -加群の圏 R -Mod はアーベル圏であり[ 14] 、特にアーベル群の圏 Ab はアーベル圏である[ 14] 。また有限生成なアーベル群の圏や捩れアーベル群 の圏もアーベル圏であるが[ 14] 、捩れなしのアーベル群の圏は(余核は捩れなしとは限らないので)アーベル圏ではない[ 14] 。よってアーベル圏の充満部分圏 はアーベル圏とは限らない[ 14] 。
アーベル圏の定義は射の向きを反対にしても不変なので、以下が成立する:
前述のように左R -加群の圏R -Mod はアーベル圏なので、上記の定理から右R -加群の圏Mod -R もアーベル圏である。
アーベル圏上でチェイン複体を定義できる事をすでに見たが、チェイン複体のなす圏はアーベル圏になる:
アーベル圏の双対もアーベル圏になる事から
C
{\displaystyle {\mathcal {C}}}
上のコチェイン複体 の圏もアーベル圏になる。以上の事からR -加群上のホモロジー やコホモロジー をアーベル圏に一般化できる。
アーベル圏上の前層や層もアーベル圏になるので、層係数のコホモロジー もアーベル圏上で展開できる:
アーベル圏の前層がアーベル圏になるのは下記の事実から従う:
注
出典
注釈
^ アーベル の名にちなむが、「abelian」の語頭は小文字を用いる。本項執筆者が確認した範囲では、#Rotman p.303、#Mitchell p.33. #MacLane p.198で小文字であった。
^ #河田 のみ2番めの条件が「2つの対象の積」ではなく単に「積」になっているが、「2つの対象の積」の意味であると判断。実際その直後に2つの積が余積や複積と等しいことを示している。
^
i
d
A
×
i
d
A
{\displaystyle \mathrm {id} _{A}\times \mathrm {id} _{A}}
は対角射 、
i
d
A
⨿
i
d
A
{\displaystyle \mathrm {id} _{A}\amalg \mathrm {id} _{A}}
は双対対角射である。
^ 本項では#Mitchell に基づいてステートメントを書いたが、#Rotman p.316.では本項の「R -Mod 」の部分がアーベル群の圏「Ab 」になっている。これはR -加群をアーベル群と解釈できる事による。
文献
参考文献
原論文
David A. Buchsbaum (1955), “Exact categories and duality”, Trans. Amer. Math. Soc. 80 : 1–34
Grothendieck, Alexander (1957), “Sur quelques points d'algèbre homologique” , Tohoku Mathematical Journal , Second Series 9 : 119–221, doi :10.2748/tmj/1178244839 , ISSN 0040-8735 , MR 0102537 , http://projecteuclid.org/euclid.tmj/1178244839
その他の文献
Kashiwara, Masaki ; Schapira, Pierre (2006). Categories and sheaves . Grundlehren der Mathematischen Wissenschaften. 332 . Springer-Verlag. ISBN 978-3-540-27949-5 . MR 2182076 . https://books.google.co.jp/books?id=K-SjOw_2gXwC
Buchsbaum, D. A. (1955), “Exact categories and duality” , Transactions of the American Mathematical Society 80 (1): 1–34, ISSN 0002-9947 , JSTOR 1993003 , MR 0074407 , https://jstor.org/stable/1993003
Freyd, Peter (1964), Abelian Categories , New York: Harper and Row, http://www.tac.mta.ca/tac/reprints/articles/3/tr3abs.html
Grothendieck, Alexander (1957), “Sur quelques points d'algèbre homologique” , The Tohoku Mathematical Journal. Second Series 9 : 119–221, ISSN 0040-8735 , MR 0102537 , http://projecteuclid.org/euclid.tmj/1178244839
David Buchsbaum (1955), “Exact categories and duality” , Transactions of the American Mathematical Society 80 (1): 1–34, doi :10.1090/S0002-9947-1955-0074407-6 , ISSN 0002-9947 , JSTOR 1993003 , MR 0074407 , https://jstor.org/stable/1993003
Popescu, N. (1973), Abelian categories with applications to rings and modules , Boston, MA: Academic Press
関連項目
主要項目 関手 具体的圏 圏の類 一般化 人物 関連分野 関連項目
カテゴリ