アドルフ・ヒトラーの演説一覧アドルフ・ヒトラーの演説一覧では、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)およびナチス・ドイツの指導者(総統)アドルフ・ヒトラーによって行われた演説について記述する。 ヒトラーと演説権力掌握までの演説アドルフ・ヒトラーは友人アウグスト・クビツェクの前で建築や政治について熱を込めて語ることはあったが、多くの人の前で演説したことはなかった。クビツェクの回想によれば、話の内容には興味がなかったが、それでも生き生きと語るその技術には毎回感心させられたという[3]。複数人の前で演説と呼べるものを初めて行ったのは、1919年、バイエルン革命ののち、ヴァイマル共和国軍に帰還してきた兵士を再教育するための啓発教育部隊に勤務していたころのことである。同僚の兵士に対して雄弁に説得し、次第に周囲が興奮していくさまを見た歴史学者カール・アレクサンダー・フォン・ミュラー教授は、部隊の指導者カール・マイヤー大尉に「いったん話し出すと止まらない」「弁舌をふるう生まれつきのテノール」がいると告げた[4]。1919年8月15日にレヒフェルト兵舎の帰還兵の前で行った演説は、兵舎の責任者によって「ユダヤ人による批判を許してしまう」と評されたほど反ユダヤ主義色の強いものであったが、帰還兵たちは「受講者全員が感激し」、「生まれつきの民衆演説家」と絶賛するレポートを書いている。ヒトラー自身も「私は『演説する』ことができた」と『我が闘争』において振り返っている[5]。 9月12日、ヒトラーはマイヤー大尉に「ドイツ労働者党」という小政党の調査を命じられた。そこでバイエルンとオーストリアの連合を主張していたバウマン教授に反発し、大ドイツ主義を説く演説を行った。この演説を高く評価した党の指導者のひとりであったアントン・ドレクスラーはヒトラーに入党を要請、ヒトラー自身も応じることとなった[6]。ヒトラーは演説家としての声望が高まるにつれ党内での地位を高め、1920年1月には党の宣伝部長となった[7]。2月24日には国家社会主義ドイツ労働者党の発足となる2000人を集めた集会で演説を行い、25カ条綱領を採択させた[8]。この演説でヒトラーは優秀な演説家の一人として評価を受けることとなり、党の集会には毎回1000人から2000人が集まるようになり、のちの副総統ルドルフ・ヘスもヒトラーの演説に感動して入党を決めている[9]。このころヒトラーは通常2時間の間、強い古いドイツと弱い今のドイツを対比させ、独裁を求めつつ、反ユダヤ主義を訴えるという手法をとっていた[10]。1921年7月29日には党の独裁的指導権を手に入れ、「指導者」(ドイツ語: Führer )と呼ばれるようになった[11]。ヒトラーはこのころまで自らを運動の「太鼓たたき」(ドイツ語: Trommler)としていたが、やがてドイツを指導する人物であることを意識した演説を行うようになった[11]。 ミュンヘン一揆での裁判中、法廷で行われたヒトラーの演説は、新聞報道を経て全国規模で彼に対する注目を高めることとなり、エーリヒ・ルーデンドルフ将軍と並ぶ大物であると認識されるようになった[12]。出獄後にはヒトラーの影響力を懸念した各地の州政府によって、次々と公開演説禁止命令が出されている[13]。ヒトラーは禁止命令が出ていない地域で演説を行い、それ以外ではアドルフ・ワーグナーに原稿を代読させた[14]。演説禁止が解除されてからも積極的な演説活動を続けたが、1932年頃になると喉の酷使で声帯が麻痺する恐れがあると診断されるようになった。そこでヒトラーはオペラ歌手パウル・デフリーントの指導を受け、声帯に負担をかけずよく通る発声術や、効果的なジェスチャーを身につけた[15]。ヒトラーはそれまで演説をするたび汗まみれになり、疲労困憊となっていたが、正しい発声法により声量も増えた[16]。また演説中に感情が高まりすぎてコントロールできなくなることもしばしばあったが、「銀色の犬の首輪」を見つめて気を落ち着かせることで、感情をコントロールできるようになった[17]。ヒトラーはデフリーントに「これで私はもはや弁士として問題がなくなった」と感謝の気持ちを伝えている[18]。 政権獲得後の演説ドイツ国首相に就任した翌日の2月1日、ヒトラーはラジオで首相としての施政方針演説を行った。しかし聴衆のないラジオ演説に戸惑ったヒトラーは、ほとんど原稿を読み上げるだけであった[20]。翌日には再録音が行われたが、ヒトラーは「今でもまだ満足できていない」とラジオ演説には課題が残ることを述べている[21]。しかし国民啓蒙・宣伝省大臣となったヨーゼフ・ゲッベルスは「ラジオ放送は最も近代的で最も重要な大衆感化の手段」であると考えており、76ライヒスマルクという破格の値段でラジオ受信機を販売させた[22]。こうしてラジオ放送で総統演説が頻繁に流されるようになった[23]。ラジオ放送の聴取は国民に義務付けられ、どこでどのようにラジオを聞いたかの報告が求められたが、亡命ドイツ社会民主党の『ドイツ通信』によれば多くの人々が繰り返される演説に飽き飽きしており、ほとんど放送を聞かなかった[24]。このこともあって1934年以降は演説放送回数は半減している[23]。 それでも1936年3月7日のラインラント進駐を説明するヒトラー演説は高い評価を受け、支持に消極的な人にも感銘を与えたと『ドイツ通信』で報告されている[25]。ただし動員されない演説に自ら集まる国民は少数であり、3月14日のテレージエン緑地で行われたヒトラー演説でも、聞くものはごくわずかであったという[26]。1936年5月には映像収録設備と関係するスタッフを集め、ドイツ全国どこでも30万人規模の大会が開ける部隊、ドイツ全国自動車キャラバン隊(ドイツ語: Reichsautozug Deutschland)が創設され、ヒトラーをはじめとする演説者の可動性が飛躍的に高まった[27]。 第二次世界大戦でドイツが苦戦に追い込まれると、ヒトラーの演説の効果はさらに低下していった。親衛隊による「世情報告」では、「予言と約束が当たらないので、個々の指導的人物のことばに対する国民の信頼は、相当に損なわれた」と指摘しており[28]、ヒトラー自身の演説に対する意欲も減退、回数も減り、1943年2月以降は聴衆のいないラジオ演説が主体となっている[29]。戦争が終局になり、ヒトラーの数少ない、ただ原稿を棒読みするだけの力のない演説は戦況に影響を与えることもなく、1945年1月30日のラジオ演説を最後としてヒトラーの演説は伝えられることもなくなった。 ヒトラー演説の特徴ヒトラーは「人を味方につけるには、書かれた言葉よりも語られた言葉のほうが役立ち、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な書き手ではなく偉大な演説家のおかげで拡大する」と演説の力を極めて高く評価していた[32]。また「大学教授に与える印象によってではなく、民衆に及ぼす効果」によって演説の価値が量られるとしている[33]。ヒトラーの演説は一見その場のアドリブのように見えるが、実際には詳細なメモ書きによって構成されていた。一見変わった言い方をしている場合にも、大衆の興味をひく意図があってあえて変更していることもあった[34]。また内容の点でも対比法、平行法を駆使しており、ヒトラーの演説は修辞的な面で1925年頃にすでに完成の域に達していた[35]。 カール・ツックマイヤーが「大衆を興奮させ、感激させる術を心得ており、」「俗物の大きなうなり声と金切り声で大衆を魅了した」[36]と評しているように高い声がヒトラー演説の特徴であるが、通常時のヒトラーの声は決して高くはなく60~160ヘルツの基本周波数で話している[37]。しかし1933年2月10日の演説では平均200~400ヘルツと、1オクターブ以上も高い音程で語っている[38]。 主要な演説
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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