人生劇場
『人生劇場』(じんせいげきじょう)は、尾崎士郎の自伝的大河小説。愛知県幡豆郡横須賀村(現・西尾市吉良町)から上京し、早稲田大学に入学した青成瓢吉の青春とその後を描いた長編シリーズ。 紹介1933年(昭和8年)3月18日から都新聞に「青春篇」の連載が開始された[1][注 1]、1935年3月25日に竹村書房から最初の単行本が刊行。川端康成が絶賛するベストセラーとなった[2]。 1959年(昭和34年)までに「愛慾篇」「残侠篇」「風雲篇」「離愁篇」「夢幻篇」「望郷篇」が発表され(尾崎の生前には「望郷篇」までが新潮文庫 全11巻で再刊)。1960年(昭和35年)5月に「蕩子篇」が新潮社で刊行された。続編は1960年に「新人生劇場 星河篇」が、1962年(昭和37年)に「― 狂瀾編」が、集英社で出版された。作品は自伝要素を混じえて創作されたが、「残侠篇」は完全な創作である。なお「風雲篇」までが電子書籍化されている(2024年現在)。 この作品を手本としたものに、同じ早稲田大学の後輩である五木寛之の自伝的な大河小説『青春の門』がある。 あらすじ青春篇物語の舞台は三州横須賀村(現・愛知県西尾市)、言わずとしれた忠臣蔵の敵役吉良上野介の地元である。 この父は、瓢吉に無鉄砲な男になるように教育する。八つになったころの瓢吉に、父は庭の銀杏の木に登れと命じた。登れたら何でも買ってやるというのである。瓢吉はも毎日その木にしがみついて、1ヶ月目にとうとう頂上までのぼることができた。頂上にのぼった瓢吉の下で、瓢太郎はゆさゆさ木を揺さぶりだした。彼一流のスパルタ教育は、こんなふうにして幼い瓢吉を叩き上げていった。 やがて、中学に入った瓢吉は、父の教育通り、血の気の多い少年になっていった。入学早々彼は、友人と一緒に校長を始め教員の悪口を書き連ねた新聞を発行、訓戒処分を受けてしまう。瓢太郎は、学校に呼び出しを受けたが、かえって瓢吉を励ます。 その頃、辰巳屋は傾き始め、瓢太郎は病気になる。父の病床にかけつけた瓢吉は、東京に出て苦学することを決意、中学を中途でやめて、父からもらっただぶだぶのトンビをはおり、こうもりがさを杖に、勇躍上京。友人の夏村大蔵をたよって、早稲田の経済科予科に入学する。刃傷沙汰を起こした吉良常、校長と衝突して学校をやめた黒馬先生(戸田先生)も、上京することになる。 瓢吉が、早稲田に入学してみると、期待とは違って教授も学生も沈滞しきっている。なにか事件でも起こして学校の雰囲気を改造したいと考えていた瓢吉の耳に、大隈公夫人の銅像が学園内に建設されるというニュースが入ってきた。チャンス到来とばかりに、瓢吉は学園を私物化する大隈重信総長に反対、「銅像建設反対」のアジ演説を学生たちにぶちまくった。学生たちは、瓢吉の名演説に度肝を抜かれ嵐のような拍手を送る。この日から、瓢吉は早稲田の英雄となった。彼の周りには、九州男児の新海、松井須磨子の風呂を覗いて三高を放校になった石上、弁舌の鬼高などの豪傑が集合、学生運動の指導権を握った。しかし、銅像反対運動は、学長の西野派と前学長の白川派の権力闘争という政治的な駆け引きに姿を変え、学生たちはその操り人形と化している現実に気がついた瓢吉は、吹岡とともに大学を去る決心を固める。一方、故郷では、病ですっかり気力の衰えた瓢太郎を吉良常が訪ねてくる。吉良常は、刃傷沙汰で監獄ぐらしをしばらくして、その後5年間台湾や朝鮮をうろついて、これから東京に出るという。瓢太郎は吉良常に東京に行ったら瓢吉にこのピストルを渡してくれと頼む。借金取りが来て、その応対をおみねと吉良常がしている最中、瓢太郎はピストルで自殺する。 瓢吉は、お袖に将来のことを迫られているが、態度を決めかねている。そこへ同じく大学を中退し、兜町で働く夏村が訪ねてくる。瓢吉の父が亡くなったことを告げ、帰省するお金を渡される。瓢吉は、帰省の汽車の中で、同郷の芸者、光竜ことおりんと出会う。おりんは代議士丘部小次郎と結婚が決まり、岡崎に帰るところと言う。 瓢吉は、吉良常から父の遺書を渡されて、そこには債権者に会って全てを任せて家の再建など考えるな、と書いており瓢吉は母と東京へ行くことを決意する。葬式のときも和尚からクソ度胸が何でも乗り越えられると励まされる。翌朝、夜明けとともに吉良常と母を連れて東京へ向かう。一方、東京の夏村はカフェで高見に久々に会うと、高見は大学を中退してから社会主義運動にのめりこんでいる。モスクワまで行きもコミンテルンの代表者ラデックと会い、活動資金として2万円受け取ってきたという。そして高見は夏村にハルピンに社会主義者の仲間として同行してくれという。高見と分かれた夏村は今度は外で横井と会う。 一方、瓢吉と吉良常は東京へ電車で行き半助が駅で待ってくれていた。半助と吉良常が酔った勢いでお袖の店に会いに行く。酔った勢いで大暴れした吉良常は、外で誰かとぶつかり、前後不覚。気がつくと拘置所の中にその男と二人でいた。 その男から、瓢吉の元担任の黒馬先生だった。「黒馬」は食い逃げすると言う。 吉良常は本当はする気はなかったが本当に寝てしまい、店の者に捕まってしまう。それでも、警察が来た所をなんとか逃げおおせる。 瓢吉はお袖の消息を聞くために夏目に会いに行く。ところが夏目は、高見が日本に潜入したコミンテルンのスパイとして官憲から追われているという。夏目は一人で東京のホテルにいる高見に会い、高見は誤解を解くためにこれから内務大臣に会いに行くという。そして高見は瓢吉と二人でハルピンに行って欲しいと頼む。 瓢吉が高見のいるホテルに向かうと既に引き払っていた。タクシーに乗ると運転手から先ほど、社会主義者が二人路上で捕まったと教えられ、それは高見だと感じる。降りたところで吹岡とバッタリ会い横井の家に行き半助に会いに行く。 愛欲編丸の内の一角、山カン横町のインチキビルに居を構える横井安太のもとに、青成瓢吉は、高見剛平、吹岡早雄とともに厄介になる。看板は、青年民主同盟と商文社である。夏村が、代議士丘部小次郎を利用するのに談判にいくというが、瓢吉は気持ちの整理がつかず、吹岡が厄介になっているという外房の暁角寺(勝浦市・妙音寺がモデル)を尋ねる。 そこに東京から芝居の一座がやってくる。その中に吉良の同郷の飲み込みの半助がいる。不忍キネマの経営不振で、この一座に入り込んだという、瓢吉の因縁浅からぬお袖を世話していたのも、彼だという。吹岡は、東京に去り、時を同じくして、世話になっていた寺の住職の妻も姿を消す。駆け落ちかと思われたが、瓢吉には真相はわからない。瓢吉も次いで、東京に戻る。高見は、コミンテルンのスパイの嫌疑で警察に勾留されていた。瓢吉は、お袖とよりを戻すが、先の見えない関係に戸惑いを隠せない。そんな中、新進作家竹野原丈一をめぐる若い文学青年たちの会合で、九州から上京してきた女流作家の卵、小岸照代と出会う。 瓢吉は照代と暮らし始めるが、海北ホテルに陣取って彼の書いた数編の原稿は、雑誌社に送る端から突っ返されてくる。やっと発表された作品は、酷評さらされ、照代の作品は彼女の前途をますます輝かしいものにしていくようで、瓢吉の心は晴れない。 そこに、照代が実は九州時代に既に婚約者がいて、ほとんど結婚する寸前まで行っていたのに、何も言わずに東京に出てきてしまったと告白。婚約者の熊木一郎が、ホテルに訪ねてくる。そこに居合わせた横井は、吹岡の紹介で、夕刊日報社に遊軍記者として勤めることになる。横井は、新聞社の上司から新進の女流作家、小岸照代が男と同棲しているらしいから、それをスッパ抜き記事にするよ命じられて、瓢吉のもとを訪れる。そこに関東大震災が起こる。混乱の東京から逃げてきた黒馬先生こと、戸田先生と再会。瓢吉は、戸田先生が満州で吉良常と一緒だったと聞き、吉良常の身を案じる。その頃、吉良常は吉良にいて、仁吉の墓参りをしている。そこへ半助が率いる芝居の一座が巡業にやってくる。ひとり、伊豆天城の温泉で、瓢吉を待つ照代は、瓢吉の友人を名乗る石上乱月と出会う。執拗な甘言を撥ね退けたところで、高園りんと知り合う。元芸鼓の光竜だった。 残侠編大正14年、深川で落ち目の昔気質のヤクザ、青木一家を預かる青木金十、あだなは小金は、馬方専業の運送屋上がりの新興勢力の丈徳とふとしたことから争いになる。横浜から女を連れて流れてきた飛車角は、小金への一食の恩義で助っ人で参加する。飛車角の愛人、おとよは、身売りされたところを飛車角がかっさらって、一緒に逃げ出してきたものだったが、その騒動のさなかに行方不明。飛車角が、あてにしていた奈良平が裏切って、おとよを売り払ったらしい。激昂した飛車角は、奈良平を刺し、追手を避け、逃げ込んだところが、青成瓢吉の住まい。瓢吉は留守で、ちょうど訪ねてきた吉良常に出くわす。その後、瓢吉が帰宅、吉良常は旧交を温める。夜中に、迷惑になるのを避け、青成の家から逃げ出した飛車角は、本門寺の森で、逃亡中の共産党の横井安太と出会う。飛車角と横井は服を取り替え、飛車角は川崎の遊郭そばの舎弟、安のねぐらを訪ね、安の女房からおとよの消息を教えられる。丈徳も奈良平も死んだとのことで、飛車角は自首する。彼は、七年の実刑で市ヶ谷の刑務所に送られる。横浜、本牧のユキホテルに戻るはずだったおとよは、玉ノ井裏の売春窟に身を落とす。そこで知り合ったお袖は、今ではお蝶と名乗っている。瓢吉は、日本正論社と文壇を二分する再建社の谷水社長から支那に行ってみることを勧められる。上海で瓢吉は予期せず吉良常と再会し、深夜、黄浦江の川船の上で故郷、三州横須賀の近況を聞く。 飛車角が世話になっていた青木一家は、小金がいよいよ体が動かなくなり、組のことは山兼が仕切っている。ところがその弟分の宮川が、玉ノ井に通っている内に、知り合って惚れてしまっのが、おとよ。飛車角の女だと知って、山兼に打ち明ける。飛車角はその間に市ヶ谷から前橋の刑務所に移された。飛車角が7年の刑期を終えて出所してくると、出迎えたのは吉良常だった。この7年の間に、小金の一家がすっかり落ちぶれて、デカ虎が残党を集め、勢力を盛り返し、寺兼と白鉄も袋叩きにされ、一家はわずか3、4人にまでになったこと。宮川がおとよを連れて出奔してしまったことなど聞かされる。動揺する飛車角に、吉良常は実は宮川に会ってほしいと、待たせてあるんだと自分の住まいに連れて行く。宮川が、おとよとのことで飛車角に謝ったあと3人で飲もうということになり、宮川が酒を買いに行く。しかし、彼は酒屋には行かず、そのまま砂町の太陽シネマに行き、デカ虎を斬りつける。宮川は現場から逃走するが、警察に捕まり、20日間の勾留ののち、本庁に回されるというところで、警察から逃げ出し、吉良常のもとにやってくる。飛車角と吉良常は宮川をなんとか救ってやる算段をする。 海北ホテルの一室、瓢吉のもとに夏村が名古屋の選挙区から、代議士の選挙に打って出るので、応援の依頼にやってくる。夏村の選挙の応援演説のため名古屋に向かう列車の中で、瓢吉は石上乱月と再会する。彼も応援演説に向かうところだった。占拠には旧友の吹岡も駆けつけていた。選挙運動を終えて、宿屋に戻った瓢吉のもとに、飛車角が吉良常の容態が急を告げているとの知らせを持ってやってくる。瓢吉は急遽、飛車角と横須賀村に向かう。吉良常は観月ホテルにいる。夏村が選挙で当選したとの知らせに気分も高揚する中、瓢吉とお袖に見守られて吉良常は息を引き取る。通夜の準備が進む中、おとよが飛車角を探して会いに来る。飛車角はおとよへの思いが、断ち切れず、探しに行くと入れ違いに出発したところだった。 風雲編離愁編夢幻編望郷篇モデルとの相関関係登場人物の一人である飛車角は、「ぶったぐりの彦」もしくは「ぼったくりの彦」と呼ばれた戦前のヤクザ・石黒彦市がモデルとされる。しかし、石黒は昭和17年(1942年)9月2日に右翼団体大化会・村岡建次(後の暴力団北星会会長・岡村吾一)の舎弟・水原新太郎(本名は菊池貞雄)に、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の政友会本部近くで銃撃され、翌日死亡している。石黒彦市が自分の恋人を売り飛ばした女衒を殺したのは事実だが、小説や映画の勇ましい侠客ぶりとは異なり、恐喝を繰り返し、身内の高橋一家(生井一家灘竹三代目の高橋林太郎の舎弟分)の人間から意見されると殺して、親分の女房まで傷つける凶悪な人物とされ、戦後になっても、映画監督の石井輝男は安藤昇から「飛車角ってのは本当は悪いやつでね」と教えられたとしている[4]。 その他、南喜一(車嘉七)、茂木久平(高見剛平)、高木徳(新海一八)、宇野千代(小岸照代)などが登場人物のモデルとして著名。 文学碑愛知県西尾市吉良町宮崎・吉良温泉の三河湾を望む高台に、「人生劇場の碑」がある。石は根府川石で、文字は尾崎士郎本人のもの。昭和40年(1965年)に尾崎士郎顕彰会によって建てられた。 映画これまでに14回映画化されている。戦後の作品では1968年版と1972年版が有名。 日活・内田吐夢監督版詳細は「人生劇場 (1936年の映画)」を参照
『人生劇場』の題名で、1936年(昭和11年)2月13日に公開。日活多摩川撮影所製作、日活配給。モノクロ、スタンダード、117分(現存49分[5])。第13回キネマ旬報ベスト・テン第2位。 スタッフキャスト
日活・千葉泰樹監督版
『人生劇場 残侠篇』の題名で、1938年(昭和13年)7月1日に公開。日活多摩川撮影所製作、日活配給。モノクロ、スタンダード。 スタッフキャスト
東映・佐分利信監督版
全2部作。東映東京撮影所製作、東映配給。モノクロ、スタンダード。
スタッフ
キャスト
東映・萩原遼監督版
『人生劇場 望郷篇 三州吉良港』の題名で、1954年(昭和29年)9月14日に公開。東映東京撮影所製作、東映配給。モノクロ、スタンダード、107分。 スタッフキャスト
東宝・杉江敏男監督版
『人生劇場 青春篇』の題名で、1958年(昭和33年)11月23日に公開。東宝製作・配給。カラー、東宝スコープ、108分。 スタッフキャスト
大映・弓削太郎監督版
『新人生劇場』の題名で、1961年(昭和36年)5月31日に公開。大映東京撮影所製作、大映配給。カラー、大映スコープ、85分。 スタッフキャスト
東映・沢島忠監督版全3作。東映東京撮影所製作、東映配給。カラー、シネマスコープ。
スタッフ
キャスト
日活・舛田利雄監督版
『人生劇場』の題名で、1964年(昭和39年)2月23日に公開。日活製作・配給。カラー、シネマスコープ、105分。 スタッフキャスト
東映・内田吐夢監督版詳細は「人生劇場 飛車角と吉良常」を参照 松竹・加藤泰監督版
『人生劇場 青春篇 愛欲篇 残侠篇』の題名で、1972年(昭和47年)7月15日に公開。松竹製作・配給。カラー、ビスタ、167分。 スタッフキャスト
東映・深作欣二、佐藤純彌、中島貞夫監督版詳細は「人生劇場 (1983年の映画)」を参照
『人生劇場』の題名で、1983年(昭和58年)1月29日に公開。東映京都撮影所製作、東映配給。カラー、ワイド、138分。 監督は深作欣二、佐藤純彌、中島貞夫、脚本は深作、佐藤、中島に野上龍雄。主な出演は三船敏郎、永島敏行、松坂慶子、中井貴恵。 舞台化作品戦前連載中の1935年には、早くも当時の新築地劇団によって舞台化された[8]。 戦後劇作家の宮本研の脚色により「残侠篇」が『今ひとたびの修羅』の題で舞台化されている。 歌謡曲「人生劇場」
「続々― 残侠篇」が刊行された翌年の1938年(昭和13年)には本作品を題材とした、佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲の歌謡曲「人生劇場」が楠木繁夫の歌として発表され、広く知られている。特に早稲田大学出身者や学生に愛唱され、「第二の早稲田大学校歌」とも云われている。後年には中島孝や村田英雄によっても歌われた。特に村田版は名唱として知られ、1965年版テレビドラマ(製作 フジテレビ、日本電波映画、監修 渡辺邦男)の主題歌にも使われ、今では[いつ?]村田英雄が本楽曲のオリジナル歌手だと認識されることも多い。1971年(昭和46年)には藤圭子がLP『圭子の人生劇場』でカバー。 映画監督・古澤憲吾が『軍艦行進曲』に次いで映画に使用する曲で、『日本一のホラ吹き男』や『日本一のゴマすり男』といったクレージー映画を始め、『続・若い季節』や『幕末てなもんや大騒動』でも使用している。 脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |