滝沢修
滝沢 修(たきざわ おさむ、1906年〈明治39年〉11月13日 - 2000年〈平成12年〉6月22日)は、日本の俳優、演出家。本名:滝沢 脩。 築地小劇場の研究生として初舞台を踏み、次いで東京左翼劇場、新協劇団に参加、『夜明け前』『火山灰地』などの演技で注目された。戦後は東京芸術劇場、民衆芸術劇場の結成を経て、宇野重吉らと劇団民藝を創設して代表を務め、日本の新劇を代表する俳優[1]となった。重厚なリアリズム演技に定評があり、舞台の代表作に『炎の人』『セールスマンの死』『オットーと呼ばれる日本人』などがある[1]。舞台演出も手がけ、映画・テレビドラマへの出演も多い。主な映画出演作に『安城家の舞踏会』『原爆の子』『戦争と人間』など。著書に『俳優の創造』など。 来歴1906年(明治39年)11月13日、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に銀行家の三男として生まれる[2]。長兄の敬一は『フランス通信』の著者である随筆家[3]、次兄の健三は大舘姓を名乗る一水会の画家である[4]。 築土小学校を経て開成中学に入学するが、小学校の時から絵が好きで小学3年の時には画家の鶴田吾郎に弟子入りして、彼からミレー[要曖昧さ回避]やゴッホの話を聞いた[2][4]。中学卒業後の1924年(大正13年)6月に築地小劇場が開場し、8月に新人養成のための夏期研究会が開かれるとこれに参加、土方与志のすすめで研究生となり、翌1925年(大正14年)に『ジュリアス・シーザー』の群衆役で初舞台を踏む[4]。青山杉作の指導を受け、『アルト・ハイデルベルヒ』でハインリッヒを演じるなど、次第に頭角を現す。1927年(昭和2年)1月の帝劇公演『平行』(カイザー作)に出演後兵役につくが、1928年(昭和3年)に除隊し、1929年(昭和4年)1月の『忠義』(メイスフィールド作)で復帰する[4]。しかし、同年3月に小山内薫の急死により劇団が分裂し、滝沢は青山らの残留組の一員として新組織の劇団築地小劇場に参加するが、5月に脱退し、村山知義らの東京左翼劇場に参加する[4]。1933年(昭和8年)、『河向ふの青春』で映画に初出演する。 1934年(昭和9年)、村山らと新協劇団の結成に参加。その第1回公演『夜明け前』で主役の青山半蔵を演じ、そのリアルな演技で絶賛される。以後も『北東の風』の武藤山治、『火山灰地』の雨宮聡などで優れた演技を見せ、人物造形の綿密さ、長台詞の味わいの深さ、重厚な演技で、新劇俳優では珍重すべきスターとしての素質の持ち主として期待され[4]、劇団の中心的俳優となる。この頃から俳優不足で新劇俳優を起用していたP.C.L.映画製作所(東宝の前身)の映画に出演するようになり、成瀬巳喜男監督の『乙女ごころ三人姉妹』、山本嘉次郎監督の『藤十郎の恋』『綴方教室』などに脇役で出演する。1940年(昭和15年)8月19日、村山らとともに治安維持法違反容疑で逮捕され、1年4ヶ月の投獄生活を経験するが、この時の夫人との往復書簡は戦後に『愛は風雪に耐えて』の題で出版された[4][5]。1943年(昭和18年)、東宝の援助で清水将夫、北林谷栄らと芸文座を創立し、武者小路実篤作『三笑』、真山青果作『頼山陽』を上演する[4]。 1945年(昭和20年)12月14日、久保栄・薄田研二とともに東京芸術劇場を結成し、翌1946年(昭和21年)3月に有楽座にて『人形の家』で旗揚げする[6]が、1947年(昭和22年)3月に帝劇で『林檎園日記』を初演後、久保との対立から森雅之、信千代と脱退し、同年7月28日に森、宇野重吉らと第一次民衆芸術劇場(第一次民藝)を結成する[7][8][9]。同年、吉村公三郎監督の映画『安城家の舞踏会』に没落華族の当主・安城忠彦役で主演、それ以降映画出演も多くなる。 1950年(昭和25年)12月22日、劇団民藝を結成し宇野とともに劇団の代表として活躍する。1951年(昭和26年)の三好十郎作『炎の人』ではゴッホを演じて芸術祭賞、毎日演劇賞を受賞する。この役は生涯の当たり役となり、公演は83歳を数えるまで続けられた。その後の舞台の代表作に『セールスマンの死』のウィリー・ローマン、『かもめ』のトリゴーリン、『オットーと呼ばれる日本人』のオットー、『狂気と天才』のキートンなどがある。1970年代からは『その妹』『アンネの日記』などで演出も手がけるようになる。 一方、映画では新藤兼人監督の『原爆の子』で、息子夫婦を原爆で失い幼い孫と貧しい生活を送る盲目の老人を力演し、第1回国際平和映画祭最優秀男優賞を受賞する[7]。ほか、吉村監督『夜明け前』の青山半蔵、市川崑監督『野火』の敗残兵、山田洋次監督『霧の旗』の弁護士など、滝沢独特の重厚で精悍なリアリズム演技で名演を見せ、『忠臣蔵』で吉良上野介を演じるなど、悪役としても凄味を見せた。テレビドラマでは、大河ドラマ『赤穂浪士』で再び吉良、『新・平家物語』で後白河法皇と、重要な役どころで出演する。 最晩年まで俳優・演出家として舞台に立ち、1996年(平成8年)の民藝公演『俳諧師』の鬼貫役が最後の舞台出演、1997年(平成9年)の『あっぱれクライトン』が最後の演出作となった。2000年(平成12年)6月22日午前11時51分、肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。93歳没。 人物・エピソードリアリズムの演技を徹底的に追求した人物の一人で、その役作りと演技で「新劇の神様」と呼ばれた[10]。『炎の人』ではゴッホのやつれた感じを出すために6キロも減量して役に挑んだエピソードがある。また、30代の頃には髪が薄くなっており、『新・平家物語』で後白河院を演じた際には、残った髪を剃って法皇の姿を演じていた。主演(平清盛役)の仲代達矢が実際に剃髪したのは、滝沢が剃髪していたことも影響している。 妻の文子は、外交官古谷重綱の娘で、古谷綱武、古谷綱正の妹である。二人を繋げたのは長谷川泰子[11]。 民藝の二本柱の滝沢と宇野は「剛の滝沢、柔の宇野」と称された。気さくで軽妙な性格の宇野に対して、滝沢は完璧主義・気難しい性格といわれたが、演劇に対する真摯な姿勢は山田五十鈴、米倉斉加年ら多くの俳優を育てている。また市村正親ら多くの俳優が滝沢の演技に影響を受け俳優を志した。 趣味である油絵の腕前は相当なものであり、『炎の人』に使うひまわりの絵も滝沢が描いている。また、公演パンフレットに使う写真を自分で撮るほどのカメラ好きでもあった。 戦時中は食料を確保するため、自分で畑を耕して野菜を作っていたという。 毎日新聞社のジャーナリストで、熊本大学教授だった息子の滝沢荘一により『名優・滝沢修と激動昭和』(新風舎文庫、2004年)が出版されており、2005年(平成17年)に日本エッセイストクラブ賞を受賞した。私生活では自宅を所有することなく、終生借家住まいだった。 受賞・受章歴
出演作品舞台
映画太字の題名はキネマ旬報ベスト・テンにランクインした作品
テレビドラマ
ドキュメンタリーラジオドラマ著書
脚注注釈出典
参考文献
外部リンク
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