野上龍雄野上 龍雄(のがみ たつお、1928年3月28日 - 2013年7月20日 )は、脚本家。東京都出身。 略歴1928年(昭和3年)東京府生まれ。父親は最高裁判事[1]。野上は妾腹の芸者の子で、吃音で背も低かった[1]。 旧制開成中学、松本高等学校文科を経て、東京大学文学部仏文科卒業。松竹の助監督試験を二年連続で受け、筆記試験は抜群ながら面接で落とされ、二年目に面接官だった中村登から「去年も君のことが問題になった。吃りでも現場が務まるのかと。だから、来年からもう来てくれるな」と言われた[1]。大映脚本家養成所でシナリオ・ライターとなる[1]。大映企画部員だった羽佐間重彰はここからの付き合い[1]。1957年、羽佐間と一緒に京王帝都電鉄が関係していた映画会社「日映」に移籍するが同社は10ヵ月で倒産[1]。羽佐間はニッポン放送に入社するが、野上はインチキプロダクションで助監督をやった後[1]、脚本家に弟子入りし本格的に脚本家デビューした[1]。倉本聰をテレビ局に紹介したのは野上という[1]。以降、映画、テレビの脚本を多数書き上げた[1]。 映画の脚本では東映において時代劇・やくざ映画のシナリオを数多く執筆した。野上は「東映のプログラムピクチャーを書いている頃は、ホンが良くなる直しは一度もしたことがない。やったことは短くする直しだった」と言っていたという[1]。テレビでは池波正太郎原作の時代劇『鬼平犯科帳』『剣客商売』の脚本や、長期シリーズとなった朝日放送の『必殺シリーズ』の脚本を多数執筆。劇場版などの長編シリーズも手がけ、同シリーズを支えた重鎮の脚本家としても著名である。実際の遺作は2005年の『男たちの大和/YAMATO』であるが[1][2]、製作サイドと揉めてクレジットから外されている[1][2]。 2013年7月20日午後3時10分、老衰のため死去[3]。85歳没。 作風
映画脚本作品
テレビ脚本作品(一部)
その他の脚本作品
参考文献
脚注
外部リンク
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