山下耕作

やました こうさく
山下 耕作
生年月日 (1930-01-10) 1930年1月10日
没年月日 (1998-12-06) 1998年12月6日(68歳没)
出生地 鹿児島県阿久根市
死没地 京都府京都市
国籍 日本の旗 日本
職業 映画監督
ジャンル 映画テレビドラマ
配偶者 山下智子(妻)
著名な家族 山下耕一郎(長男・映画監督)
山下智彦(次男・テレビドラマ監督)
テンプレートを表示

山下 耕作(やました こうさく、1930年昭和5年〉1月10日 - 1998年平成10年〉12月6日)は、日本映画監督時代劇任侠映画を中心に、テレビ時代劇も演出してきた。鹿児島県阿久根市出身。鹿児島県出水高等学校京都大学法学部卒業。愛称は同姓の軍人・山下奉文にちなんで「将軍」[1]。両者に縁戚関係はない。長男は映画監督の山下耕一郎、次男はテレビドラマの監督でテレビ映画制作会社「京都組」代表取締役の山下智彦

略歴

京都大学卒業後、東映の入社試験を受け成績トップ[2]。しかし当時の東映に入社する社員は何らかの縁故がなければ入れず[2]、しかも山下は全学連くずれであることから東映の重役連中は不採用にしようとした[2][3]。ところが当時の東映京都撮影所製作部長だった岡田茂が「ああいうのこそ根性があるから、映画をやらさないといかん。縁故だの全学連だのそういうことは関係ない」と重役連中を説き伏せ[2]マキノ光雄の「岡田、お前が選んだ奴を入れろ」と言う賛同もあり[2]、山下は1952年5月15日に東映に入社できた[2][3][4]月給9千円[4]。同期に工藤栄一[5]。山下は初め映画監督になる気は全くなく[5]、人事部、厚生部など労務関係の部署をまわっていたが[5]1955年[4]、都度都度喧嘩ばかりするのを見た岡田から助監督に廻される[3][4][5]

内出好吉内田吐夢吉村公三郎佐々木康河野寿一沢島忠今井正らの助監督を経て、1961年 『若殿千両肌』で監督デビュー。

1963年 長谷川伸の戯曲『関の弥太っぺ』を映画化。その演出において表現された優しさと情感は、主演中村錦之助の演技と共に絶賛された。任侠映画全盛期には数多くの作品を演出したが、1968年に監督した傑作『博奕打ち 総長賭博』(脚本・笠原和夫、主演・鶴田浩二)において悲劇美を極めた重厚な演出を示し、三島由紀夫に賞賛された。これは「仁侠映画」が芸術性を獲得した嚆矢となった。

1974年神風特別攻撃隊を提案した大西瀧治郎中将を描いた『あゝ決戦航空隊』を監督。1976年には時代劇・仁侠映画をメインに活動している中で、脱獄を請け負うブラックビジネスを描いた千葉真一主演の異色作品『脱走遊戯』を演出した。

1998年12月6日午前3時1分に多臓器不全のため京都市の病院で死去。68歳没[6]

作風

「花」は山下演出の特徴である。山下作品の「花」には、登場人物の万感の思いがこめられている。『関の彌太ッぺ』ではやくざの彌太郎と旅籠の娘・お小夜が槿の花を挟んで会話する。「やくざ」と「堅気」が一つになることが許されない世間の厳しさの中で、槿の花は2人の心がしっかりと交流していることを見守るように咲いている。『緋牡丹博徒』では牡丹の花が白から赤に変わることで、ヒロインが堅気からやくざに転換する心情を鮮やかに示した。

1970年代後半から客足が遠のき始めた仁侠映画について、多くの作品でコンビを組んだ笠原和夫が史劇など他ジャンルに進出したのに対し「自分はあくまで仁侠映画にこだわる」と語った。両者は互いの能力を高く評価しあっていたため、痛恨の決別となった。笠原は、自作脚本『あゝ決戦航空隊』を任侠映画に固執するセンスで演出されることを危惧して大島渚への監督交代を会社に要求。却下されたものの、親友を裏切ったという引け目をかかえることになったため二度と山下と組むことはなくなったと記している[7]

作品

映画

テレビドラマ

著書

参考文献

  • 『日本映画テレビ 監督全集』(1988年) キネマ旬報社
  • 『浪漫工房』 第十号 「特集松方弘樹 いま最も映画を愛する男」(1997年) 創作工房

脚注

  1. ^ お久しぶりです
  2. ^ a b c d e f 高岩淡『銀幕おもいで話』双葉社、2013年、96-97頁。ISBN 4-5757-14-01-1 
  3. ^ a b c 将軍 1999, pp. 82、162−163、185.
  4. ^ a b c d 「〈東映映画特集〉 『監督にとって東映とは何か』 文・山下耕作」『シナリオ』1977年7月号、日本シナリオ作家協会、44-45頁。 
  5. ^ a b c d 水野和夫「世界の映画作家15/山下耕作監督その人間観と映画観を語る」『キネマ旬報1972年昭和47年)4月春の特別号 118-120頁、キネマ旬報社、1972年。 
  6. ^ 「仁侠映画でヒット作」 読売新聞1998年12月7日朝刊35面
  7. ^ 『破滅の美学』227頁(幻冬舎アウトロー文庫1997年)

外部リンク