日本電波映画
日本電波映画株式会社(にほんでんぱえいが)は、かつて存在した日本の映画製作会社である。京都市内、亀岡市内に撮影所を開設、稼動した[1]。 データ
北緯35度00分48.01秒 東経135度42分14.05秒 / 北緯35.0133361度 東経135.7039028度
北緯35度00分43.27秒 東経135度42分41.44秒 / 北緯35.0120194度 東経135.7115111度
略歴・概要松本常保が1948年(昭和23年)、京都市右京区太秦多藪町にえくらん社(のちのエクラン社、2007年解散)を設立、映画製作および芸能プロダクション業務を開始[1]、1959年(昭和34年)7月、同地に設立したテレビ映画・映画製作会社が「日本電波映画株式会社」である[1]。 1960年(昭和35年)12月31日、読売テレビで放送を開始した『琴姫七変化』が設立第1作で、戦前からキャリアのあるヴェテラン監督久見田喬二が「組田秋造」名義で監督した[1]。同作の放映期間中の1962年(昭和37年)4月、本社から東へ500メートル離れた太秦井戸ヶ尻町に撮影所を建設・開所、日本電波映画撮影所とした[1]。同作は、同年末の12月29日に放送を終了するまで、新撮影所で撮影した。 ヒット映画『明治天皇と日露大戦争』(1957年)で知られる映画監督渡辺邦男を招き、1965年(昭和40年)のテレビドラマ『人生劇場』の監修を皮切りに、同年には渡辺監督の『明治の風雪 柔旋風』(配給は松竹)で映画製作に乗り出す。当時はヒットが続き、一時は亀岡に「日本電波映画第二撮影所」を開設したが。渡辺作品などへの過剰投資が仇となり、『明治天皇と日露大戦争』を元にした、大作ドラマ『明治天皇』(1966、1967年)さえも打ち切られ、1967年(昭和42年)に不渡りを出し[2]、井戸ヶ尻町の撮影所も閉鎖された[1]。 尚、当社の製作部長であった国広鷹夫は、俳優 国広富之の実父である。 撮影所を手放した後も「大和企画」名義でテレビ映画『白獅子仮面』(1973年)を製作した[3]。『白獅子仮面』以降のテレビ映画製作の記録はなく、社長の松本はその後も映画を製作したが、「日本電波映画株式会社」の活動および解散時期については不明である[5]。 フィルモグラフィ
註
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