1973年の近鉄バファローズでは、1973年の近鉄バファローズの動向をまとめる。
この年の近鉄バファローズは、岩本尭監督の3年目のシーズンである。
概要
長く低迷を続けたチームが1969年から4年連続のAクラスとなったのを受け、親会社の近畿日本鉄道は老朽化していた藤井寺球場を改修してナイター設備を設置することになったが、沿線住民の反発で鉄塔の建設後すぐに工事は中断され、日本生命球場がしばらくメイン本拠地として使用されることになった。さしたる大型補強はなかったが2位になったこともあり、チームは優勝候補にあげられた。しかし、前期開幕後から主力選手に故障者が続出すると前期優勝の南海の独走を許し、最下位で終了。後期に入ってもチームの成績不振は止まらず終盤には岩本監督が休養して島田光二打撃コーチが代理監督となるが、後期も最下位に沈み、最終的に総合成績でも1967年以来の最下位に転落。投手陣は大黒柱の鈴木啓示が11勝をあげたがそれに続いたのは神部年男の7勝で、前年防御率1位の清俊彦がリーグ最多の17敗を喫した上に最多失点、さらに清や鈴木らとともに投手陣を支えた佐々木宏一郎がわずか2勝に終わるなどの誤算が相次いだ。打撃陣は4番の土井正博が打率リーグ3位に食い込み、小川亨がチーム2位の19本塁打を記録するも後の選手は不調で、この年から三塁のレギュラーとなった羽田耕一はリーグ最多の27失策を記録するなど全体で129失策を記録した。シーズン終了後、佐伯オーナーは阪急の監督を勇退したばかりの西本幸雄を新監督に招聘し、ユニフォームもプルオーバー式に一新されることになる。
チーム成績
レギュラーシーズン
1973年パシフィック・リーグ順位変動
前期
順位
|
4月終了時
|
5月終了時
|
前期成績
|
1位
|
太平洋 |
--
|
南海 |
--
|
南海 |
--
|
2位
|
ロッテ |
1.0
|
ロッテ |
3.5
|
ロッテ |
2.0
|
3位
|
南海 |
3.0
|
太平洋 |
7.0
|
阪急 |
3.5
|
4位
|
日拓 |
4.5
|
阪急 |
10.0
|
太平洋 |
5.0
|
5位
|
阪急 |
5.0
|
日拓 |
12.0
|
日拓 |
12.0
|
6位
|
近鉄 |
7.5
|
近鉄 |
13.5
|
近鉄 |
13.5
|
|
後期
順位
|
8月終了時
|
9月終了時
|
後期成績
|
1位
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
2位
|
日拓 |
7.0
|
ロッテ |
6.5
|
ロッテ |
5.5
|
3位
|
ロッテ |
7.5
|
日拓 |
11.5
|
南海 |
13.0
|
4位
|
南海 |
10.0
|
南海 |
12.5
|
日拓
|
5位
|
太平洋 |
11.0
|
太平洋 |
15.5
|
太平洋 |
15.5
|
6位
|
近鉄 |
15.5
|
近鉄 |
23.0
|
近鉄 |
25.0
|
|
*優勝はプレーオフで決定。3位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定
[1]
オールスターゲーム1973
できごと
選手・スタッフ
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---|
監督 | |
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一軍コーチ | |
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二軍監督・コーチ | |
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投手 | |
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捕手 | |
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内野手 | |
---|
外野手 | |
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[2][3]
表彰選手
ドラフト
脚注
注釈
出典
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1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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