高輪築堤高輪築堤(たかなわちくてい)は、日本初の鉄道の開業(明治5年)に際して、東京府高輪(現在の東京都港区)で東京湾の浅瀬[新聞 1]に建造された堤である。 当時、高輪周辺には軍事を担当する兵部省の軍用地や、旧薩摩藩邸があり、国防上必要であるとの理由で兵部省が鉄道局への引き渡しを拒んだことから、大隈重信が海上に鉄道を敷設することを指示[1][新聞 2]したため、イギリス人技師エドモンド・モレルによる指導の下、本芝 - 品川停車場間(現:田町駅 - 品川駅間)の約2.7 kmの海上に、建造当時の海岸線に沿うように建設された[2]。 線路付け替えで使われなくなった後、東京湾岸の埋め立てで地中に姿を消したが、2019年(平成31年)4月に品川駅改良工事で石垣の一部が発見され、2021年(令和3年)9月17日、日本初の鉄道開業時に東京側の起点だった旧新橋停車場跡に追加する形で、「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」として国史跡に指定された[3]。 構造築堤には幕末に建設された台場の技術が活用され、石材には未完成の台場や高輪海岸の石垣が転用・流用されている[1]。そのため、日本の在来技術と西洋の近代技術の折衷を見ることができ、世界的にも稀な海上鉄道の姿を今に伝える遺構である[4]。 海上に土手状に盛られたものを「橋台」と呼び、全長1.65哩(2655メートル)、高さは場所にもよるが高潮を警戒し海面から3~4メートル、軌道が載る最上部の幅は21呎(6.4メートル)あり複線構造に対応できるだけの幅があったが単線で敷かれた(明治9年には複線化)[書籍 1]。 現在も浜松町駅南側を流れる古川に第一橋梁(鉄道橋)が架けられ、そこを渡った先(旧町名:芝金杉井町・金杉浜町)の海岸湿地(干潟)を埋め立てた場所が第一橋台で、古川支流(入間川)を越えると元鯖江藩抱地に上陸し、そこから先は完全に海上となる。河川橋梁や漁船が出入りするために残された水路を溝渠として区分し、横浜までに22の橋が架橋されたが、その内築堤区間では第五~第八橋梁が築かれた[書籍 2][書籍 3]。 石積みの下には杭基礎を打ち込み、盛り土流出防止にしがらみを組み上げるなど、日本の伝統的な土木技術も駆使された。その様子は横浜開港資料館が所蔵する『The Far East』に掲載された明治4年時の建設風景を捉えた古写真に残る[書籍 2]。 なお、横浜にも同様の海上築堤が設けられた[書籍 2]。 発掘明治32年の三線化に伴う築堤西側(陸側)の埋め立てを皮切りに、同42年の四線化や大正3年(1914年)に完成した品川駅拡張工事で海側の埋め立ても進み、昭和10年(1935年)の鉄道用地を含む市街地整備で完全に均されたため正確な位置が分からなくなっていたが[書籍 4]、2019年4月、東日本旅客鉄道(JR東日本)高輪ゲートウェイ駅西側周辺の再開発工事(TAKANAWA GATEWAY CITY建設)に際し、約1.3 kmにわたって高輪築堤の遺構が発見された[4][5][新聞 3][新聞 4]。 JR東日本は、高輪築堤の調査や研究を港区教育委員会などと進めた上で、築堤の一部保存および移築保存を通じた公開展示(2021年1月10日 - 1月12日には事前応募制の現地見学会を実施[報道 1])などの検討を表明[報道 2][新聞 5]。また、港区の監督の下、外部の有識者らで作る「高輪築堤調査・保存等検討委員会」を設置し、調査を進めた[新聞 4]。しかし、JR東日本側は調査や保存による再開発計画見直しの懸念もあり、全面的に保存するのは難しいとした[新聞 5]。これに対して、日本考古学協会は2021年1月及び同年3月に、高輪築堤は日本最初の鉄道が開通した際に造られた世界的にも珍しい海上築堤であり、小規模な一部保存では高輪築堤の意義が損なわれるとして、JR東日本や文化庁などに対し、現地での全面的な保存を求める要望書を提出した[新聞 4][新聞 6]。他にも産業遺産学会や日本歴史学協会など20以上の団体から保存などの要望が出された[新聞 4]。文化財の指定等及び保存・活用に関しての事項の調査審議を行う文化審議会文化財分科会も「日本の近代化に関する遺跡として重要」と評価し、現地保存を求めるという意見表明を文化庁に提出している[新聞 7]。萩生田光一文部科学大臣は国史跡の指定も視野に、調査費の支援を進める考えを示した[新聞 8]。 これらの意見を受けてJR東日本は2021年3月23日に、計画中の再開発ビル4棟のうち1棟の設計を見直し(3街区)[報道 3]、築堤の一部を現地で保存する考えを示した[新聞 9][新聞 10]。設計変更などの費用は概算で300億から400億円程度を見込んでいる[新聞 10]。同年4月21日には、JR東日本が「高輪築堤調査・保存等検討委員会」が取りまとめた内容を踏まえて、「第七橋梁」付近約80 m(3街区)と公園隣接部約40 m(2街区)を現地保存、信号場跡付近約30 m(4街区)を移築保存、その他の地区は記録保存をすることが発表された[報道 3][新聞 11]。同年5月17日から解体・記録する本調査を着手している[新聞 12]。 2021年8月23日には文化審議会が、「旧新橋停車場跡」に現地保存を表明している橋梁部を含む2か所の計約120 m分を追加指定する形で史跡にするよう文部科学大臣に答申した[報道 4][新聞 13]。同年9月17日の告示によって正式に史跡指定されている(指定名称は「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」)[新聞 14]。2022年2月22日には、国際記念物遺跡会議が「発掘・記録・破壊のサイクル」の停止とより広い範囲での一般公開、開発計画の見直しなどを求めている[新聞 15]。 2023年11月15日、羽田空港アクセス線工事準備に伴う地盤確認調査(トレンチ調査)で、田町駅北側の本芝公園(雑魚場跡)付近の軌道下から石垣が検出されたことが明らかとなり高輪築堤の一部と推測されたが、山手線・京浜東北線など営業路線にかかっていることから正式な発掘調査はできず周知の埋蔵文化財包蔵地となった[新聞 16]。これを受けて、JR東日本は築堤を避けて通すために羽田空港アクセス線の計画を一部変更することを2024年4月15日に発表した[6]。それによると一部はやむをえず解体撤去するが、残せる部分は現地(線路下土中)保存することになる[7]。 また、2024年10月1日に公表されたJR・京急品川駅および軌道の移設に伴う周辺開発で新たに整備される駅北口と街区に設けられる広場には、確認された第八橋梁北横仕切堤や初代品川駅(旧品川停車場)のための築堤に関しての保存については言及されていない[8]。 2024年12月8・9日、TAKANAWA GATEWAY CITY5・6街区で進められていた築堤の存在と位置を確認するトレンチ調査9ヶ所の内の一つを一般公開する見学会を実施。当該区の開発では建造物建設の予定地からは外れていることから、埋め戻し保存する[9]。 第七橋梁第七橋梁は、東京側起点の新橋から数えて七番目に設けられた橋であり[10]、高輪ゲートウェイ駅北側に位置している[11]。海上に鉄道を敷設することで漁業ができなくなるとする反対論があった東京湾の漁業者に配慮して設けられた水路跡である[11]。三代目歌川広重の錦絵『東京品川海辺蒸気車鉄道之真景』には描かれたままの姿を見せており、保存状態の良好さを示している(広重が描いたのは同じ設計の第八橋梁とされている[11])[1]。
史跡公園整備2024年10月31日、JR東日本がTAKANAWA GATEWAY CITY第1期(THE LINKPILLAR 1 南北両棟)の開業=街びらきを2025年3月27日とする旨を公表したのに伴い、TAKANAWA GATEWAY CITY内に取り込まれた高輪築堤の詳細も明らかになった。それによると文化創造棟(正式名称「MoN Takanawa:The Museum of Narratives」/設計:隈研吾)に伴う2街区公園とTHE LINKPILLAR 2に伴う3街区公園(いずれも2026年春竣工予定)に現地保存した状態で公開するほか(3街区公園は第七橋梁部)、THE LINKPILLAR 1南北両棟間の高輪ゲートウェイ駅駅前広場では信号機土台部分を移築した状態で公開する。2街区公園部分では、築堤を空中回廊の展望テラスから軌道面を見下ろしたり、地下回廊から石垣を見上げるように見学できる。また、自由通路には開業期の鉄道が走ったライン上にレールを埋め込んだり、植え込み囲いに石垣石材を流用するなど、鉄道公園としての「高輪リンクライン」も展開。さらにTHE LINKPILLAR 2内には築堤基礎に用いられ回収された木杭をあしらった「築堤ギャラリー(仮称)」(設計:内藤廣)を2027年度を目途に開設し、スマートフォンなどタブレット端末をかざすと築堤上を走る鉄道の様子を見ることができるARプログラム「TAKANAWA LINK SCAPE」も公開する[12]。 移築公開開発事業に伴い多くの石積みが解体除去されたことから、その部材を貰い受けた復元展示が各地で行われている。
このほか、立体復元ではないが、石垣の石材を単体や複数個並べて展示する場所もある。組み上げていないため、積まれた状態では見ることができない間知石としての裏側を観察することができる。
関連する場所
関連作品脚注出典
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書籍
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