高円寺平和劇場
高円寺平和劇場(こうえんじへいわげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][注 1][12]。1946年(昭和21年)1月、東京都杉並区高円寺に開館した[1][2]。東亜興行が新宿・歌舞伎町に進出した3年後の1954年(昭和29年)9月、同社に経営権が移る[9][13]。高円寺平和(こうえんじへいわ)、高円寺平和座(こうえんじへいわざ)[注 1]、高円寺日活平和(こうえんじにっかつへいわ)[7]と表記されることもあった。 沿革
データ
概要1946年(昭和21年)1月、国鉄(現在のJR東日本)高円寺駅北口、庚申通りの杉並区高円寺七丁目999番地(現在の高円寺北三丁目20番23号)に開館した[1][2][12][14]。開館当時の同館は、セントラル映画社(CMPE, セントラル・モーション・ピクチュア・エキスチェンジとも)が独占的に配給するアメリカ映画を一番館として封切上映する、アメリカ映画専門館であった[1]。経営は三亜興行、支配人は米山信一、観客定員数は550名であった[1]。セントラル映画社は1951年(昭和26年)12月27日には解体された[16]。1949年(昭和24年)8月、阿佐ケ谷駅北口に「阿佐谷オデヲン座」を開館して創業した高橋康友の東亜興行株式会社が、1954年(昭和29年)9月に経営権を得ており、2年前に開館した「下北沢オデヲン座」についで6館目に開業した映画館である[13][9]。同月、吉祥寺駅近くに「吉祥寺オデヲン座」をつづけて開館している[9]。同館はオデヲン系列に入り、外国映画(洋画)の三番館、つまりロードショーを終えた作品をその2週後に上映する劇場になった。同館の支配人はひきつづき米山信一、観客定員数は446名であった[2]。 同館が建つ前、とくに第二次世界大戦前の昭和初年には高円寺館(杉並町高円寺937番地、のちの杉並区高円寺町七丁目937番地)のみであったが[17][18]、戦時中の1942年(昭和17年)までには、高円寺館のほか、美須鐄(チネチッタ創業者)が経営する高円寺映画劇場(高円寺町七丁目950番地)、坂本暉吉が経営する興風映画劇場(高円寺町一丁目459番地)の合計3館が存在した[19][20]。戦後は、高円寺駅の周辺には「高円寺平和劇場」のほかに戦前からの高円寺映画劇場(馬橋二丁目230番地、現在の高円寺南三丁目23番)があり[注 2]、1954年(昭和29年)までには、高円寺エトアール劇場(高円寺七丁目961番地、1953年開館、のちの高円寺東映、現在の高円寺南三丁目47番8号)、杉並映画劇場(高円寺三丁目175番地)の合計4館が存在した[12]。1960年(昭和35年)までには、エトワール劇場の脇にムービー山小屋(現在の高円寺南三丁目47番1号)が加わり、「高円寺平和劇場」のほかは高円寺映画劇場、高円寺エトアール劇場、杉並映画劇場の合計5館になった[注 1]。1958年(昭和33年)には、高円寺エトアール劇場が高円寺東映と改称している[3]。杉並映画劇場は1960年(昭和35年)前後、高円寺映画劇場は1970年(昭和45年)前後にそれぞれ閉館している[3][4][5]。 1981年(昭和56年)に高円寺東映・ムービー山小屋が閉館して跡地は西友高円寺店になり、高円寺の映画館は、日活ロマンポルノの封切館になっていた同館だけが残った[6][8]。日活ロマンポルノは1988年(昭和63年)6月末をもって打ち切りになり、同館は、1989年(平成元年)3月7日に閉館した[8]。跡地は、2001年(平成13年)、同年度の杉並区の補正予算で区に買収され、2003年(平成15年)1月、「高円寺北自転車駐車場」となり現在に至る[15]。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia