陸軍騎兵学校
陸軍騎兵学校(りくぐんきへいがっこう)は、大日本帝国陸軍の騎兵術に関する教育を行う唯一の実施学校である。1888年(明治21年)に陸軍乗馬学校として設立され、1898年(明治31年)に 陸軍騎兵実施学校と改称し、さらに1917年(大正6年)、陸軍騎兵学校と改称した。 日本で最初に車両研究を行ったのは陸軍自動車学校であるが、日本で初めて装甲車や水陸両用車・軽戦車などの車両の試験や機甲部隊に関する本格的な教育が実施したのは陸軍騎兵学校が最初であり、騎兵学校内には、後の機甲部隊の教育や研究の中心を担うこととなる陸軍戦車学校が組織されている。そして1941年(昭和16年)に機甲本部が設置されると陸軍歩兵学校で行われてきた研究成果も「陸軍戦車学校」に統合され、日本における戦車をはじめとする機甲教育の土台が出来上がった。 概要本校は日本全国の陸軍の各連隊から選抜された甲・乙種の尉官級の将校学生の為の実施学校として設置。通称は騎兵学校(きへいがっこう)又は習志野騎兵学校(ならしのきへいがっこう)で、「騎兵の町・習志野」を象徴する存在の一つだった。騎兵監管轄下に置かれ、1941年(昭和16年)に騎兵監が廃止されると陸軍機甲本部長の隷下におかれた。 陸軍士官学校と同様、卒業式や終業式には必ず天皇や皇族、陸軍首脳部が臨席して行われるなど日露戦争後、特に重要視される存在となった。大正以降は、馬術教育が盛んに行われ、多くのオリンピックの馬術競技の代表選手を世に送り出した。なお、馬術や乗馬に親しみを持つ皇族、その他の将官なども私的興味から練習風景や馬術大会を見学に度々訪れるなど親しまれる存在で、学校行事として行われる馬術大会や御前馬術の際は東京などから馬術部の学生や見物客が詰め掛けるなど、陸軍の中でも人気が高く、騎兵学校の教官や学生の中には、習志野錬兵場での演習がない際に、学生や一般人に対し馬術を披露したり、馬術指導をするなど交流を深める者も少なくなかったという。日露戦争での騎兵連隊の活躍から外国人将校も騎兵学校の視察に訪れた[1]。 日本の近代馬術は、もっぱら西洋馬術を主に、大日本帝国陸軍において導入し発達したという経緯があった。そのため、用語の多くは、軍隊用語の流れを汲むものとなっているほか、陸軍騎兵学校が日本で唯一の馬術学校だったことから、多くのオリンピック選手を輩出した。このため、日本馬術連盟の公式大会が習志野原(陸軍習志野練兵場)で開催されるなど騎兵学校と習志野原は馬術のメッカとしても栄えた。このような背景から現在の日本の馬術文化は騎兵学校を起源としている。 しかし、第一次世界大戦で、戦車や航空機、機関銃などの近代兵器が登場すると、騎兵無用論・騎兵廃止論が議論されるようになり、論争の末、吉橋徳三郎陸軍少将が割腹自殺を図るなどして社会問題化するなど騎兵科は危機に立たされた。この時、蓮沼蕃、山田乙三、栗林忠道などの中堅の騎兵科出身者中心に、これまでの馬に乗って戦う戦法から戦車(機甲部隊)を主力とする騎兵科近代化案を提唱し、それまで、輜重兵科の陸軍自動車学校自動車隊で研究されていた戦車などの車両(機甲)研究を陸軍騎兵学校内に移し(但し、丁度、同時期に陸軍歩兵学校内にも陸軍自動車学校から、同じように機甲研究が移され、歩兵学校内でも主に歩兵を主力とする歩兵支援を主な目的とした戦車研究が行われるようになった)、戦車や装甲車などの車両の具体的な運用や戦法などの活用方法を目的とした機甲部隊の研究と教育活動を活発化させた。 そして、昭和9年を境に近代化に対応するため機械化が導入され、日中戦争(支那事変)後は、馬術学生の募集は停止され、機甲教育機関へと移行。騎兵学校内に後の陸軍戦車学校の前身となる戦車第2連隊の練習部(教育・研究担当)と下士官候補者隊が組織され、1936年(昭和11年)8月には騎兵学校内に陸軍戦車学校の名称で戦車教育を主とする教育機関が設置された(同年12月1日に千葉県千葉市黒砂町に移転している)。 そして、昭和16年には機甲本部が創設され実質的に騎兵は無くなり、「陸軍騎兵学校」は正式に「陸軍軽機甲学校」に改められた。 太平洋戦争中には、陸軍軽機甲学校の研究主題は島嶼防御におかれ、本土防衛の戦術的中心となった。そのため、昭和18年にまず、教導隊が1か月にわたり房総半島の南端で防御戦闘の研究を行い、翌年の昭和19年に「島嶼防御の参考」を作って普及教育を実施している。 なお、学校の軍馬は昭和16年の628頭をピークに学校全体が動員され、昭和19年に20頭、翌年の終戦時には10頭を残すのみだった。 教育区分
所在地学校の沿革
停戦時の学校組織
校長・秋山久三少将以下1,012名、馬匹10頭。
停戦に伴い秋山少将以下120名は復員官として残務整理を開始。 兵器類は米軍に引き渡し、被服・糧秣・需品類は移転して来た大阪第二陸軍病院へ、衛生材料は加古川第二陸軍病院に引き継いた。
習志野への移転の背景
学校の主な行事
行事の祭には、来賓の送迎を鉄道連隊が津田沼駅から騎兵学校まで行った[注釈 18]。 人物歴代校長
歴代幹事
研究部
教育部長
教官
教導隊長
学校 附
材料廠長
著名な卒業生
学校が開発した車両当時の遺構等
交通注釈
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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