梅崎延太郎
梅崎 延太郎(うめざき のぶたろう、1880年(明治13年)7月13日 - 1964年(昭和39年)4月24日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍士官学校12期、陸軍大学校22期。最終階級は陸軍中将(1931年8月1日)。栄典は従三位勲一等[2]。 年譜1880年(明治13年)7月13日、士族梅崎信量の長男として生まれる。1916年(大正5年)家督を相続する[2]。 1901年(明治34年)陸軍士官学校を卒業し、陸軍少尉に任官する[2]。 それからドイツ、スウェーデンなどに留学し、スウェーデン公使館、デンマーク公使館附武官を勤め、1920年(大正9年)9月27日、騎兵第18連隊長、1928年(昭和3年)3月8日陸軍騎兵学校長、1929年(昭和4年)8月1日騎兵第1旅団長、1930年(昭和5年)12月22日、軍馬補充本部長などを歴任する[2][3]。 1931年(昭和6年)8月1日、陸軍中将に任ぜられ、1932年(昭和7年)8月8日に第20師団長に補される。1935年(昭和10年)3月30日予備役に編入[2][3]。 退職後1941年時点で南鮮合同電気株式会社、北鮮合同電気株式会社の取締役を務めている[2][3]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。 栄典著書脚注 |