長野地区 (河内長野市)
長野地区(ながのちく)は、大阪府河内長野市内の地域。1940年(昭和15年)までの旧・長野町域の大部分とその周辺の地域を指す。 歴史
地理長野地域は、河内長野市の北東部に位置する。東端と南端に石川が流れている。主に南東部が河内長野駅を中心とした古くからの商店が集まる市街地となっており、北西部は大阪外環状線を中心に区画整理された商工業施設が広がっている。河内長野市のニュータウンはこの地域には少ないが、駅周辺の再開発とともに高層住宅が増えつつある[5]。 河川地域本町旧長野町の中心部で、七つ辻のように高野街道が交差する交通上の要衝となっており、近世から「河内国木屋堂」といわれる大規模な高野参詣の宿泊・休憩施設が並ぶなどして発展し、その後も#長野商店街をはじめとした市街地が形成されてきた。1966年6月1日の町名変更時に国道170号より北側を本町(ほんまち)として住居表示された。現在は河内長野駅前として再開発がなされ、南側を中心に駅ビルや高層住宅などが並びつつある。
長野町1966年6月1日の町名変更時に旧長野町の国道170号より南側を長野町(ながのちょう)として住居表示された。現在も南西側は高野街道をはじめ、石川に面した町屋建築など旧街道の街並みが色濃く残る。北側は国道沿いに再開発され商店が軒を連ねており、南東側は高層住宅が並ぶ。
菊水町1966年6月1日の町名変更時に旧長野町の南海高野線より東側を菊水町(きくすいちょう)として住居表示された。南側は河内長野駅に隣接し、長野温泉に由来する古くからの駅前通りとなっている。北側は国道170号と国道310号が南北に通っており、主に工業団地で構成されている。
末広町1966年6月1日の町名変更時に旧長野町の石川右岸を末広町(すえひろちょう)として住居表示された。石川沿いには明治から昭和にかけて長野温泉としてにぎわったが、現在は河内長野荘を除いて温泉旅館は残っておらず主に住宅地となっている。住所区分としては、末広町に複雑に絡むようにして河合寺が入り込んでいる。地形的には山麓地帯であり、長野公園と河合寺を分ける谷間に国道310号が走っている。
古野町1966年6月1日の町名変更時に古野町(ふるのちょう)として住居表示された。旧古野村に由来し、1660年(万治3年)には膳所藩代官所が置かれていた[7]。言い伝えによると、西高野街道の駅場として繁栄したが、大火によって全村焼失し、一時的に三日市に駅を移したきりとなったされている[8]。1971年から1975年にかけて土地区画整理事業が行われており、現在は住宅地が広がっている。東端は河岸段丘を南海高野線が通っており、東西に市道「野作向野線」が貫く構造となっている。
本多町1966年6月1日の町名変更時に本多町(ほんだちょう)として住居表示された。旧西代村の北部に該当し、町名はこの地域にゆかりのある本多氏に由来する。東端を国道310号、南端を市道「野作向野線」が通っており、商店が立ち並んでいる。
西代町旧西代村に由来する。1966年6月1日の町名変更時に西代町(にしだいちょう)として住居表示された。現在の市庁舎に移設するまで役場が置かれていたほか、富田林保健所支所などの官公庁機関が集中していた。河岸段丘上にあり、南北に市道「河内長野駅前線」が通っており、その西側は西代神社と旧西代藩陣屋で古い町並みが残り、東側は住宅地となっている[9]。
錦町旧西代村の南部のうち河内長野かつらぎ線より北側を錦町(にしきちょう)として、1966年6月1日の町名変更時に住居表示された。北端は河岸段丘となっており、錦町野作線のように急坂となっている。その裾野となる地域は錦町とともに下西代と呼ばれてきた。
栄町旧西代村の南部のうち河内長野かつらぎ線より南側を栄町(さかえちょう)として、1966年6月1日の町名変更時に住居表示された。錦町の一部とともに下西代と呼ばれてきた。南端は石川となっており、住宅街が広がっている。
原町旧原村に由来し[10]、市制施行時に原町(はらちょう)として町名変更され、2004年12月6日の町区域変更時に1丁目〜6丁目まで住居表示された。西高野街道に沿う立地にあり、南西から北東にのびた平坦な台地となっている。北部に市道「原町狭山線」が通り、南北に国道310号、東西に大阪外環状線(国道170号)が立体交差している。木戸西町との間に安倍晴明伝承の残る晴明塚が建っている[11]。
野作町旧野作村(野村、惣作村)を野作町(のさくちょう)として、1966年6月1日の町名変更時に住居表示され、1984年2月1日には西之山町・昭栄町・寿町を分離するかたちで大阪外環状線(国道170号)より南東部に町区域変更された。かつての巡礼街道(天野街道、府道20号)沿いは、市民会館、青少年センター、法務局長野出張所など官公庁機関が集まっていたが、現在は村落の面影を残す住宅地となっている[11]。北部の外環状線沿いは商業施設が並んでいる。
西之山町野作町のうち市道「野作向野線」より北部を西之山町(にしのやまちょう)として、1984年2月1日の町名変更時に住居表示された。全域が区画整理されており、大型店舗をはじめとした商業施設が大阪外環状線(国道170号)を中心に立ち並ぶ。
昭栄町野作町のうち大阪外環状線(国道170号)より北西部の北側を昭栄町(しょうえいちょう)として、1984年2月1日の町名変更時に住居表示された。ほぼ区画整理されており、ロードサイド店舗などの商業施設が並ぶ。
寿町野作町のうち大阪外環状線(国道170号)より北西部の南側を寿町(ことぶきちょう)として、1984年2月1日の町名変更時に住居表示された。全域が区画整理されており、ロードサイド店舗の商業施設のほか、中小規模の製造業団地が集積している。
上原町旧上原村に由来し、市制施行時に上原町(うわはらちょう)として町名変更され、1998年3月1日には上原西町を分離した。石川の河岸段丘上に位置しており、金剛寺そして和泉へと通ずる巡礼街道(天野街道、府道20号)沿いにかつての村落の街並みが住宅地として残っている。現在は1976年までの土地区画整理によって、北部を中心に大阪外環状線(国道170号)沿いの商業施設が並んでいる。小山田町との間には上原都市環境緑地というグリーンベルトが設けられ、赤峰トンネルをはじめとした環境保護に対する配慮がなされている。
上原西町1998年3月1日に上原町から分離する形で区域変更され、上原西町(うわはらにしまち)として住居表示された。ほぼ全域が工業団地として区画整理されており、大阪外環状線(国道170号)と国道371号の交点を中心に大型店舗が集中している。
交通鉄道道路脚注
参考文献
関連項目 |
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