鏡桜南二
鏡桜 南二(かがみおう なんじ、1988年2月9日 - )は、モンゴル国ウブルハンガイ県出身で鏡山部屋(現役晩年には伊勢ノ海部屋)に所属した元大相撲力士。2018年に鏡桜 秀興(かがみおう ひでおき)に改名、当四股名は帰化後の本名としても用いた。2023年3月15日に日本国籍を取得し、その直後の2023年3月場所を最後に引退[1][2][3]。帰化前の本名はバットフー・ナンジッダ[1](モンゴル語キリル文字表記:Батхүүгийн Нанжид)。得意は右四つ、寄り、上手投げ。身長181.0cm、体重143.6kg、最高位は西前頭9枚目(2015年9月場所)。 経歴モンゴルではバスケットボール、ブフ(モンゴル相撲)、レスリングを経験した。13歳の頃に、モンゴル時代はバスケットボールの強豪選手だった白鵬が現在どうしているのかをバスケットボールチームのコーチに聞いたところ、大相撲へ勧誘されて日本へ渡ったことを知らされ、以来本格的に日本の相撲へと傾倒していく。2003年に旭鷲山の紹介を受けて德瀬川と共に来日し、実業団の摂津倉庫で稽古を積んでから鏡山部屋に入門し、2003年7月場所で初土俵を踏んだ。[4]四股名には鏡山部屋の名から「鏡」を貰い、当初四股名の下の名として名乗っていた南二は、本名のナンジッダに因んだとされる。 同年9月場所で初めて番付に載った。当初は体重90kgと軽量ゆえに、同場所7日目の德瀬川戦では吊り出しで敗れる経験もした(鏡桜が現役の土俵において吊り技で敗れたのは同取組のみである)。同場所こそ勝ち越したが、それ以降約2年間は一進一退の成績だった。鏡山部屋は鏡桜の入門当初から所属力士数が極端に少ない状態が続き、特に2008年7月場所から閉鎖までの13年間は自身と竜勢(8代鏡山の実子)の2人のみとなっていた。部屋の中だけでは満足な稽古はできなかった[5]ため、幕下時代は鏡山部屋と同じく新小岩駅近くにあった中村部屋(2012年12月閉鎖)に出稽古へ行き、地力をつけることが多かった。 2005年5月場所で初めての三段目昇格を果たしたが、2場所連続で負け越して同年9月場所で序二段降格。同場所を勝ち越しで三段目に復帰して臨んだ同年11月場所では5勝2敗と三段目で初の勝ち越し、同場所から2006年5月場所まで勝ち越しを続け、同年7月場所では東三段目4枚目と幕下に非常に近い地位に在位したが1勝6敗と大敗し、出直しを余儀なくされた。暫しの一進一退を経て東三段目42枚目で迎えた2008年5月場所では無傷の5連勝を記録するなど、最終的に6勝1敗の好成績。翌7月場所では幕下に初めて昇進した。新十両までに2回三段目降格を喫したものの、2009年5月場所以降は幕下に定着、2011年1月場所では初めて十両昇進が見える幕下15枚目以内を経験した。2012年11月場所では西幕下4枚目で4勝3敗と、十両に昇進するには微妙な成績だったが、幕下上位で勝ち越した力士が少なかったことも影響し、場所後の番付編成会議で新十両昇進が決まった。初土俵から十両昇進までは所要56場所で、外国出身としては史上6位のスロー昇進だった[6]。 新十両昇進をしてから3場所目・西十両13枚目で迎えた2013年5月場所は、一時は優勝争いの単独トップにも立つ活躍を遂げ、13日目に玉飛鳥に、14日目に玉鷲に、それぞれ連敗し優勝は琴勇輝に譲ったものの、最終的に十両優勝次点に相当する12勝3敗の好成績を修めた。翌7月場所は新入幕も狙える東十両4枚目で6勝9敗と負け越したが、翌9月場所では再び大健闘。初日に敗れた後、2日目から11連勝。9日目には1敗で十両の優勝争いの先頭に立ったが、13日目に大砂嵐に敗れて2敗に後退すると照ノ富士に並ばれた。14日目は朝赤龍に勝ち、照ノ富士は旭秀鵬に負けたため、千秋楽の直接対決は自身が勝てばそのまま十両優勝、照ノ富士が勝てば優勝決定戦という状況だったが本割・優勝決定戦で照ノ富士に連敗。十両優勝を逸し、同場所の審判部長を務めていた師匠から賞状を贈られることは実現しなかった。新入幕となっても不思議ではない成績だったものの、番付運の悪さにも見舞われ、翌11月場所は東十両筆頭に留まった[7]。同場所も10勝5敗と勝ち越し、翌2014年1月場所で新入幕。所要62場所での新入幕は外国出身としては史上2番目のスロー出世で、鏡山部屋からも元関脇・多賀竜が部屋を継承してから17年で初めての幕内力士誕生となった[8]。幕内ではやや体力負けする相撲が目立って1月場所(東前頭14枚目で6勝9敗)と3月場所で(東前頭16枚目で5勝10敗)いずれも負け越し、翌5月場所では西十両2枚目に陥落。同場所では7日目から4連勝をするなど好調で14日目終了時点で十両優勝争いの先頭と1差。千秋楽はその単独トップだった琴勇輝を倒して4人による優勝決定トーナメントへと持ち込んだが、決勝戦で逸ノ城に敗れて、ふたたび各段優勝を逸した。7月場所で再入幕を果たすも、2場所連続6勝9敗に甘んじ再び十両へ陥落。2015年1月場所に3度目の入幕を果たすもここで負け越して十両に陥落。翌3月場所は場所前に稽古で左足首を捻った上2日目の阿夢露戦で背筋の一部を断裂したことで4勝11敗の不振に終わった。続く5月場所は一転して自身初の十両優勝(12勝3敗)を果たし、4度目の入幕も実現させた[9]。しかし2場所幕内を務めた後に同年11月場所で十両へ陥落すると、2016年1月場所からは3場所連続で途中休場を経験(内2場所は後に再出場)するなど怪我・病気に苦しめられた。西十両12枚目で迎えた同年5月場所では4日目に玉飛鳥に勝って1勝しただけの状態で7日目から途中休場、翌7月場所で3年半守り続けた関取の地位を失い、幕下に陥落した。さらに幕下陥落後も2場所続けて2勝に留まり、2016年11月場所では西幕下40枚目まで番付を落とした。しかしこの場所では6番相撲まで勝ち続け、7番相撲で新十両を懸ける照強と対戦。これに敗れ照強の新十両を許す形となったものの6勝1敗で場所を終え、自身8場所ぶりの勝ち越し。以降再びジリ貧に陥り、2017年9月場所では西幕下49枚目まで番付を落とすが、この場所の7番相撲では同じモンゴル出身で、アマチュア横綱と学生横綱の実績を引っ提げて幕下15枚目格付出で入門して3場所目の東幕下14枚目・水戸龍に勝ち自身の幕下優勝を7戦全勝で飾ると同時に、水戸龍の十両昇進を阻止した。翌9月場所では西幕下5枚目まで番付を戻すも、2勝5敗に終わり十両復帰を果たせなかった。東幕下10枚目で迎えた2018年3月場所では左膝を痛め6日目を不戦敗で途中休場、翌5月場所も全休したことで翌7月場所では三段目まで降格した。しかし同場所では13日目に琴手計との全勝同士の対戦を制し、優勝決定戦でも佐々木山に勝ち、自身3度目の各段優勝を果たした。翌9月場所では西幕下12枚目まで番付を戻し、5勝2敗と勝ち越した。翌11月場所では十両復帰目前の西幕下4枚目まで番付を戻し、四股名を知人の名前に因んだ「鏡桜 秀興」に改めた[10]が、2勝5敗と負け越した。2020年7月場所以降は休場が続き、2021年7月場所は幕内経験者では琉鵬、舛ノ山に次いで史上3人目となる序ノ口陥落となったが、同場所も休場。翌9月場所では幕内経験者としては昭和以降史上初となる番付外陥落となり、幕内経験者の最低地位記録を更新することになった[11](最高位十両の力士も含めた元関取の番付外陥落は龍門・北勝国・飛翔富士に次いで史上4人目)[12]。尚、同年7月21日付で鏡山部屋が閉鎖されたため、伊勢ノ海部屋へ転属した[13]。 2022年も復帰は叶わず、同年は一年間全てを番付外で過ごした。その後、2023年3月15日付で日本国籍を取得したことが官報で告示[1][2]。取得から11日後の3月26日に引退発表[14]。10場所に亘り番付外で過ごしたが、復帰には至らなかった。年寄襲名・若者頭就任・世話人就任を伴わない引退だった関係上、日本相撲協会との利害関係は消滅し、引退後の進路も引退発表時点で定まっていなかったものの、日本に居住する意向は示していた[15]。断髪式は6月10日に両国国技館で開かれ、母国の関係者ら約270人がはさみを入れた。師匠だった鏡山から止め鋏を入れられた際には口を結び涙をこらえ、断髪式終了後の取材においては「ぐっときたが、次の人生が狂いそうなので耐えた」と話していた。断髪式が行われた時期の報道によると、自身の現役時代の四股名にちなんだ「KAGA(かが)」という社名の会社を経営し、社員7人を抱えながら住宅リフォームや飲食業などを手がけていると[16][17]された。また、新小岩でジンギスカン鍋専門店も経営しているとされる[18]。 取り口左上手を得意とし、引いてからの出し投げで崩しておいての寄りと、強烈な上手投げがあった。一方で馬力や出足にはそれほど優れず、巨漢や速攻相撲には弱い傾向にあった。思い切り土俵外出される形の寄り切りや押し出しによる敗北が多かった(特に新入幕以前)。重心が低いため投げや引き技で仕留められることは少なかった。突き切って勝利することは極めて稀だったが、突っ張りも得意としていた。 エピソード
主な成績
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
改名歴
脚注
関連項目外部リンク
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