照強翔輝
照強 翔輝(てるつよし しょうき、1995年〈平成7年〉1月17日 - )は、兵庫県南あわじ市(出生地は洲本市)出身で伊勢ヶ濱部屋に所属した元大相撲力士。本名は福岡 翔輝(ふくおか しょうき)。身長169.0cm、体重107.0kg、血液型はO型。最高位は西前頭3枚目(2020年9月場所)。軽量を補うためにスピードを活かして左差しを浅く取って拝むようにしつこく攻める相撲が得意である[2]。能天気で前向きな性格[3]。「照強」という四股名は、「強くなって被災した地元を照らせるように」と師匠が命名した[4]。取組前の塩撒きで大量の塩を撒くことでも知られる。 来歴入門前瀬戸内海に浮かぶ淡路島の出身。阪神・淡路大震災が発生した直後で余震も続く中、大震災発生15時間後に洲本市の兵庫県立淡路病院で生まれた。幼児期は病弱でありよく風邪をひいていたが、気は強かった。6歳のころには親の名前ですら呼び捨てにするやんちゃぶりであったが、祖父の前では素直であった。年少時には生年月日から「地震くん」とあだ名されることもあった[5]。「物心がついた時には復興していた」と後に語っており、福岡は被害の全容を知るわけではない。それでも特別な日に生まれたという意識が、努力の原動力になった[6]。 三原町立八木小学校(現在の南あわじ市立八木小学校)1年から柔道を始めたが、当時は道場へ行くことを嫌がったという。3年次に両親が離婚し、親権は母親が持つことに決まった。この時に本名を母親の旧姓である「菊井」に改姓する可能性もあったが、姓名判断の結果を受けて父親の姓である「福岡」になった[7]。4年次にわんぱく相撲の大会に飛び入り参加して2位になったことをきっかけに相撲を始めて地元の道場に通うようになり、南あわじ市立三原中学校在学中は全国大会でベスト16になった。所属していた相撲クラブは非常に厳しく、38度の熱で休んだ翌日の稽古で監督から竹刀で殴られ「熱が40度なら休んでろ、39度は見学、38度は稽古したら治る」と言われた[8]。中学時代は相撲部がなかったため、学校ではサッカー部に所属してゴールキーパーを務めた[9]。 しかし3年生になると相撲の道場には通っても学校には年間30日しか出席しなくなるなど真面目に通わなくなり[10]、夜通し遊び続けるなど荒れた生活を送るようになっていた。3年生の全国都道府県中学校相撲選手権大会には髪を染めた状態で出場した。同大会でその姿を目撃した炎鵬曰く「金髪」で、本人は「茶髪」と述懐していた[11]。卒業後は勉強が嫌いであったことに加えて、既に死去していた祖父からたびたび「力士になれ」と言われ続けていたことから[12]、高校には進学せずに大相撲に入門することを決意し、道場の監督と師匠が知り合いという関係の伊勢ヶ濱部屋(横綱・旭富士)に入門した[13][14]。本人は後に「俺は中学を休み過ぎて公立高校に行けなくなったんだよね」と入門の理由について語っている。 初土俵から十両昇進まで身長は入門当時167センチしかなかったが、第二新弟子検査(現在は廃止)に合格して2010年(平成22年)3月場所で初土俵を踏んだ。前相撲は2連勝で一番出世。同期生には千代桜らがいる。初めて番付に名前が載った翌5月場所の4番相撲で千代桜を破ってストレートで勝ち越しを決めるなど入門当初から大器の片鱗を見せていた[15]。 同年5月場所で序ノ口に上がった後は、部屋の安美錦が関取昇進まで使用していたサガリを譲り受けて使用している[16]。7月場所には序二段に昇進、序二段を2場所で通過し、11月場所では15歳9ヶ月(番付発表時点)にして三段目に上がった。しかし、2011年(平成23年)1月場所で、入門以来初めての負け越しを味わった。そこから二度の負け越しも経験してやや足踏みしたが、数々の努力を積み重ねの末に2012年(平成24年)3月場所、貴乃花、稀勢の里に次ぐ平成以降3番目の若さとなる17歳1ヶ月で幕下に昇進した[17]。 しかし幕下の壁に阻まれ、しばらくは幕下と三段目上位の往復が続いたが、2013年(平成25年)1月場所、幕下で初めての勝ち越しを決めた。これ以後は幕下に定着し、この年は自己最高位の東幕下19枚目で5勝2敗で終えた。その後は幕下の一桁台の番付にも度々名前を載せたものの、いずれも負け越して十両昇進のチャンスを生かすことができない場所が続いた。 2016年(平成28年)11月場所、西幕下9枚目で7戦全勝で幕下優勝、初の各段優勝となった。大一番の前には「1年に1回、チャンスが来れば良い方なのに、2度もチャンスがある。経験を生かしたいです」と話していた。優勝を決めた7番相撲では鏡桜が右膝を痛そうにしていたことも見抜いて、その膝に重心を乗せさせようと、右から攻め、右の上手をつかんで出し投げで振り回し、崩れた瞬間に前進して寄り切った。この優勝に際して照強は「うれしいです。毎日毎日、キツイ稽古をしてきました。ご飯を食べることもつらかったです。吐きながら、毎日食べていました。頑張ってきた積み重ねが、やっと報われました」と喜んだ。1日100番近く稽古して掴み取った新十両であった[18]。場所後の番付編成会議にて、2017年1月場所での新十両昇進が正式に決定した[19]。南あわじ市出身力士の十両昇進は若鳴門清海以来55年ぶり[20]。伊勢ヶ濱部屋から中卒叩き上げの関取が出るのは初めて[21]。2016年9月に自身の中学生時代に死去した祖父の墓の費用を全額負担したり昇進が確定した時点で看護系の大学に通っている20歳である妹の受験費用を出したりと、取的時代から孝行息子ぶりを発揮していたことも昇進に際して明らかになった[20]。 新十両昇進から新入幕まで新十両となった2017年1月場所は10日目からの4連敗が響いて負け越しを確定させるが残りを白星で終えて7勝8敗と幕下に逆戻りすることは避けた。敗れれば幕下落ち濃厚の一番を乗り切り「よかったです」と安堵の表情を浮かべ、地元に近い大阪で行われる翌3月場所へ「これで落ちていたらしゃれにならなかった。今場所は力が入っちゃったんですけど、来場所からは緊張せずにやれると思う。勝ち越しを目指して、今場所の負け越しを取り戻すいい相撲を取りたい」と誓った[22]。3月場所は中日の青狼戦で勇み足による白星を得るなど幸運に恵まれ、12日目に8勝目を挙げて自身初となる関取の地位での勝ち越しを果たし、最終的に9勝を挙げた。同年10月5日に行われた秋巡業八千代場所では申し合いを9番行った[23]。直後の11月場所は自己最高位の東十両9枚目で4勝11敗と大きく負け越し、十両残留が厳しい状況とはなったが、7日目にはこの場所を14勝1敗で十両優勝した蒼国来に取直しを含む激戦の末に唯一の黒星をつける殊勲の星があった。 西幕下筆頭へ下がった2018年(平成30年)1月場所は4勝3敗と勝ち越し、1場所で十両へ復帰することになった[24]。復帰を決めたこの場所の4勝目は、この場所で新十両昇進を果たした炎鵬から奪ったものである[25]。2場所ぶりの十両となった3月場所は、5日目から6連敗を喫して勝ち越しに後が無くなったが、11日目から不戦勝を含む4連勝として星を5分に戻した。しかし千秋楽は德勝龍に敗れ、十両復帰の場所を勝ち越しで飾ることはできなかった。9月場所は自己最高位となる西十両8枚目の地位で土俵に上がり、13日目の明瀬山戦では抱えられて完全にロックされた状況からの下手投げで勝利するなど執念を見せ、9勝6敗で自己最高位を更新することを確定した[26]。 続く11月場所は序盤から白星を量産し、11日目を終えた時点で9勝2敗と優勝を狙える成績だった。終盤に調子を落として優勝争いからは脱落したものの、自己最高の10勝を挙げた。西十両5枚目での10番と新入幕を狙える成績であったが、番付運に恵まれず2019年1月場所は東十両筆頭に据え置かれた。その1月場所11日目の白鷹山戦で足取りにより白星を獲得し、勝ち越しを決めた。これにより、翌3月場所の新入幕を確定させた。兵庫県からは戦後25人目の新入幕[27]。誕生日の17日(場所5日目)も白星を挙げており、「勝つたびに淡路島で1人でも2人でも喜んでくれれば平成最後の時に勝ててよかった」と郷土への思いを口にしていた[28]。 新入幕以降3月場所は10日目に負け越しを確定させるなど幕内の壁に阻まれたが、残りの5日間を4勝1敗と食い下がり、場所成績を6勝9敗として幕内残留に望みをつないだ。 翌5月場所はわずか1枚下降と番付運に恵まれ東前頭15枚目の地位で土俵に上がることとなったが、再び6勝9敗として、十両に下がってもやむを得ない成績ながら、再び番付運に恵まれて、1枚半降下で幕尻の西前頭16枚目にとどまった。しかしながらこの7月場所で照強は突如覚醒し、初めての幕内勝ち越しを決めたばかりか14日目まで優勝争いに絡んで12勝3敗の好成績を残し、敢闘賞を受賞した。なお、この場所の勝った12番の内10番の決まり手が押し出し、1番が押し倒しであった[29]。9月2日の伊勢ヶ濱一門連合稽古では平幕以下の関取衆による申し合いで15勝9敗。同じ一門の小兵幕内力士である炎鵬との精力的な稽古が伝えられた。途中から炎鵬との三番稽古になるほどで、炎鵬から張り手を受けてムキになるなどもした[30]。2020年7月場所14日目には優勝の懸かっている朝乃山を足取りで下し、2敗目を喫して優勝争いから1歩後退したと思われた部屋の照ノ富士を援護する格好となった[31]。2022年9月場所は東前頭15枚目の地位で6勝9敗。幕内には下に1枚半しか番付が残っていなかったため十両陥落が濃厚視されたが、他幕内力士、ならびに十両上位力士の成績との兼ね合いで、11月場所では1枚下降の東前頭16枚目と踏みとどまった。しかし両膝の故障で初日から不振で、幕内では1991年7月場所の板井以来31年ぶり5人目となる15戦全敗を喫してしまった[32]。この不調は持病の糖尿病が原因であり、場所中は血糖値が400まで上昇し、インスリンを服用しても数値が下がらなかったため九州から帰って薬を変えるなどして改善した[33]。2023年1月場所は西十両10枚目となり、初日から3連敗の後4日目に前年9月場所14日目以来20番ぶりとなる勝利を挙げたものの、直後の4連敗もあり10日目には8敗目を喫し早くも負け越し、その後4日間で3勝と盛り返したものの、千秋楽東幕下筆頭の玉正鳳に敗れ5勝10敗に終わり、翌3月場所では西幕下筆頭に陥落[34]、9日目の5番相撲で同じく十両から陥落した西4枚目の魁勝に敗れ4敗となり負け越し、1場所での十両復帰を逃した。東幕下12枚目まで番付を下げた7月場所は4勝3敗と8場所ぶりの勝ち越し。2024年1月場所時点では、幕内の頃に115kgあった体重が100kgあるかないかぐらいに落ちているが、糖尿病の影響で乱れていた血糖値も「ちょっとずつ回復している」という[35]。 引退2024年3月場所9日目の3月18日、日本相撲協会に引退届を提出し、受理された[36]。引退後は直ちに日本相撲協会を退職している。19日の引退会見では、糖尿病の影響で満足に稽古ができなくなったことを引退の理由として語っている。思い出の取組として2020年7月場所14日目の朝乃山戦の勝利を挙げた。結果的に同部屋の照ノ富士の優勝を後押ししたこともあり「相撲人生の誇り」と胸を張った。引退後の進路は引退会見の時点では未定。「中学を卒業してから入門したので相撲界しか見てない。いろんな世界を見たい」と話した。断髪式は6月23日に行う予定が示された[37]。 スポーツライターの飯塚さきの記事によると、糖尿病との戦いは19歳から始まったといい、引退直前に痩せた体を鏡で見て絶望したことと主治医から「痩せないと良くならない(つまり相撲を続けている限り良くならない)」と宣告されたことで引退を決意したとのこと。引退したことでもう無理に食べなくても良いと本人は安堵を浮かべている。今後、淡路島にある玉ねぎの加工会社と、ごみ処理の会社、通販サイト、地域情報サイトの母の4つの事業の経営に取り組む意向を示した[38]。 6月23日に両国国技館で断髪式が行われ、約300人が鋏を入れ、止め鋏は師匠の伊勢ヶ濱が入れた[39]。 格闘家として2024年8月、巌流島イベントプロデューサーの谷川貞治からオファーを受け、格闘家に転向[40]。9月7日、巌流島VIRTUAL SURVIVAL2では、巌流島ルール 3分3R 無差別級で韓国のウィ・ソンオと対戦し、2R1分43秒、パウンドを打ち、TKOで勝利した[41]。 10月19日、ジャパン・マーシャルアーツ プロローグ大会では、巌流島ルール 3分3R 無差別級で城戸康裕と対戦し、1R1分29秒、3度の押し出しにより勝利した[42]。 取り口
エピソード
主な成績通算成績
三賞
各段優勝
場所別成績
幕内対戦成績(以下は最高位が横綱・大関の現役力士)
(以下は最高位が横綱・大関の引退力士)
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
戦績異種格闘技
メディア出演番組情報
脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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