隠岐の海歩
隠岐の海 歩(おきのうみ あゆみ、1985年7月29日 - )は、島根県隠岐郡隠岐の島町出身で八角部屋所属の元大相撲力士。身長191cm、体重167kg[1]、血液型はO型。島根県立隠岐水産高等学校出身。本名は福岡 歩(ふくおか あゆみ)。愛称はあゆみ。最高位は、西関脇(2015年3月場所・2016年11月場所)。現在は年寄・君ヶ濱。 来歴入門まで島根県隠岐郡西郷町(現:隠岐の島町)で生まれる。出身の隠岐島には、神社の改修などの慶事があれば夕方から翌日の昼まで相撲を取り続ける「古典相撲」の風習があり、本人もそれに親しみ4歳から廻しをつけていた。本格的に相撲を始めたのは西郷小学校4年生からで、兄や周囲の友達が始めた影響で中学3年まで近くの相撲クラブに通った。地域の相撲クラブに通って稽古で鍛えた結果、全国大会にも小学校4年生から小学校6年生まで出場するなど結果を残した。しかし相撲にそれほど興味もなく「正直、行くのが嫌で嫌で仕方なかった」そうだったが、稽古が終わった後に一緒に食べる食事などが楽しかったと後に当時を語っている[2]。 西郷中学校でも相撲を続け、3年生の時には全国中学校体育大会に出場した。進学した隠岐水産高校では3年連続でインターハイにも出場し、ベスト32の実績を持っている。しかし、後に同期生となる豪栄道(埼玉栄)と栃煌山(高知・明徳義塾)が高校横綱を始めとして数々のタイトルを手にしたことに比べて実績に劣っていたことから力士になりたいという憧れはなく、代わりに船を操舵する航海士を目指し、実習船に乗りハワイへ航海に出た[2]。同じく高校在学中に3級海技士の筆記試験に合格、同校卒業後は2年間の専攻コースに進学し再び実習船に乗り、3ヶ月ほど航海をしたが集団生活になじめなかったことで今後航海士としてやっていけるか心配になり、同年11月に高校の専攻コースを中退した。 将来に漠然とした不安を感じていたとき、高校相撲部の顧問から電話がかかってきた。八角親方(元横綱・北勝海)とその知人が高校相撲部の後輩の竹谷(現・世話人隠岐の富士)をスカウトしに島を訪れるので、食事会に一緒に来ないかという。「旅行感覚だった」という八角に「軽い気持ちで」参加した隠岐の海であったが、親方の知人に熱心に勧誘され「ここで終わる人間じゃない。やっぱり夢を見たい」とその気になった。父も後押ししてくれたことで1週間で八角部屋への入門を決断し、新弟子検査の2日前に上京した[3]。ちなみに八角親方の現役時代は全く知らず、師匠に出会っていなければ力士になっていなかったという。2005年1月場所に初土俵を踏んだ同期には、豪栄道、豊響、栃煌山、同部屋の朱雀らがいる。後年になる2019年10月26日の秋巡業広島場所で、角界入りした理由について4人の小学生男女から聞かれた際に「体が大きかったから」とユーモアめかして答えていた[4]。一説によると「でも俺は高専(正確には水産高校の専攻科)も中退しちゃったんですよ?」と勧誘に尻込んでいたところ八角が「君のような軟弱者こそ相撲部屋に入りたまえ」と口説いたのが決め手となったという。 新十両へ2008年11月場所で、西幕下筆頭で十両昇進の目安である5勝を挙げるも十両下位に大きく負け越した力士が少なく、十両昇進は見送られた。幕下筆頭で5勝を挙げながら十両昇進を見送られたのは1966年9月場所の代官山(東幕下筆頭)以来42年ぶり。 2009年1月場所では、東幕下筆頭で登場し、7戦全勝で幕下優勝を果たし、場所後の番付編成会議において十両昇進が決定。同時に、四股名を本名の「福岡」から「隠岐の海」と改めた。島根県出身の関取は、忍の山(春日野部屋、1976年11月場所十両最終在位)以来33年ぶり、戦後6人目。また隠岐島出身の新十両は1958年9月場所の隠岐ノ島(時津風部屋、1960年3月場所まで十両に在位)以来、51年ぶり2人目。2009年3月2日に発表された3月場所番付で東十両7枚目と発表された。新十両が7枚目となるのは、2001年1月場所の朝青龍以来の高番付である。 新十両で迎えた3月場所は初日に清瀬海の変化で敗れた時に右肩を負傷、これが大きく響き、4勝11敗という十両デビューとなった。翌5月場所も5勝10敗に終わり、十両2場所で一度も勝ち越すことなく幕下へ陥落となった。幕下陥落にあたり、再び四股名を本名の「福岡」に戻した。その7月場所は4勝3敗と勝ち越し、1場所で十両復帰を決め、四股名を再び「隠岐の海」に戻した。十両復帰の9月場所は、12日目に十文字を寄り切りで破り、十両初の勝ち越しを決め、最終的に優勝次点となる10勝5敗の好成績を収めた。 新入幕へ2010年3月場所の番付編成会議で東前頭12枚目と発表され、新入幕が決まった。島根県出身の関取では、1922年春場所(当時1月場所)で新入幕を果たした若常陸、太刀ノ海以来88年ぶり。また隠岐の島出身力士としては初めての幕内力士の誕生である[5]。その3月場所の初日、新入幕となってから初めて幕内の土俵に立ち、時天空との初顔合わせでは、肩透かしで敗れた。3日目、玉乃島に寄り切りで勝ち、入幕後初白星を飾った。中盤まで負けが先行していたが終盤3連勝し、千秋楽で8勝7敗と勝ち越しを決めた。 2010年6月23日、大相撲野球賭博問題で日本相撲協会の調査に自己申告した力士29人の中に、隠岐の海も含まれていると報じられた[6]。6月28日に開かれた日本相撲協会の臨時理事会で野球賭博に関与した隠岐の海らを謹慎処分にすることを決めた。この問題の際に「コメントは広報・マネージャーに任せている」と付け人など部屋関係者に対応を丸投げしたため、一部で批判の声が上がった。 幕内定着へ2011年1月場所は、5日目から9連勝と好調で13日目まで優勝争いに加わり、11勝4敗の好成績で敢闘賞を初受賞した。5月技量審査場所は、大関・魁皇(現・浅香山親方)との初顔の一番で勝利している(魁皇は翌場所引退したため土俵上ではこの1戦のみ。翌場所も割が組まれたが不戦勝)。9月場所は、西前頭筆頭で8勝7敗と勝ち越し、三役昇進の可能性もあったが番付編成会議で東前頭筆頭と発表され、昇進はならなかった[7]。 2012年5月場所は、千秋楽まで10勝4敗と好成績であり、横綱・白鵬ら5人と優勝を争っていた。千秋楽に敗れて10勝5敗に終わり優勝を逃した。9月場所は、自身最速となる9日目で勝ち越しを決め、最終的に11勝4敗の好成績を挙げた。11月場所は、2日目に新横綱の日馬富士から自身初の金星を獲得し、同時に幕内100勝を達成した。しかし8日目の豪栄道戦で負傷し、10日目から左第三趾骨折により休場することとなった[8]。休場は2010年7月場所以来2度目で、負傷による休場は初めて。 2013年3月場所は、12日目まで2敗で全勝の白鵬を追っていたが13日目に敗れ、優勝争いから脱落(白鵬は優勝を決めた)。しかし、千秋楽の妙義龍戦に勝ち、11勝4敗の好成績で2回目の敢闘賞を受賞した。 新三役場所以降2013年5月場所で新三役(西小結)に昇進した。島根県からの新三役は、1892年6月場所の谷ノ音以来、約121年ぶりのことである。重症の痛風(詳細は後述)を治療する中で迎えたこの場所[9] 7日目に琴欧洲から三役で初白星を挙げたが、4勝11敗と大きく負け越した。9月場所は、7勝7敗で千秋楽を迎えたが対戦相手の安美錦が休場で不戦勝となり、8勝7敗と勝ち越しを決めた。場所後の10月16日には年寄名跡『君ヶ濱』を前君ケ浜親方(元関脇・北瀬海)から取得した[10]。11月場所は、2013年5月場所以来3場所ぶりに三役復帰(西小結)した。その場所は7勝8敗と負け越した。 2014年7月場所は、13日目に左脚を痛め、14日目から左膝屈筋腱損傷により休場することとなった。休場は、2011年11月場所以来3度目。最終的に6勝8敗1休の成績で終えた。9月場所は、2日目から6連勝するなど星を伸ばし、10日目に1年ぶりの勝ち越しを決め、12日目には2013年3月場所以来の二桁10勝目を上げた。 2015年3月場所には、新関脇に昇進。島根県からの新関脇は、1894年5月場所の谷ノ音以来121年ぶりのことである[11]。この場所は、初日から3連敗。4日目の朝の稽古で左脚を痛め、同日から左腓腹筋内側頭損傷、筋肉内血腫により休場することとなった。休場は、2014年7月場所以来4度目[12]。新関脇の白星なしは15日制においては1971年1月場所の福の花以来2例目[13]。7月場所は、序盤から好調をキープし、2013年3月場所以来となる11勝を挙げた。9月場所は、初日に白鵬に初めて勝利。7日目に豪栄道、9日目に稀勢の里の両大関を破ったが、最終的に6勝9敗と負け越した。11月場所では、場所前に痔の悪化で休場するかと囁かれていただけに[14]、初日から8連敗のあと5連勝したが最終的に5勝10敗の成績で終えた。 2016年3月場所は、7敗目を喫してから6連勝で勝ち越しを決めた。11日目には通算400勝を達成した。返り三役で西小結として迎えた5月場所は、7日目までに6敗を喫し、9日目に横綱・日馬富士を破るなど見せ場は作ったが、最終的には6勝9敗で三役陥落となった。7月場所は、1横綱1大関を破るなど健闘し[15][16]、千秋楽に勝ち越しを決めた。9月場所は、初日から2横綱2大関を破り4連勝[17]。平幕力士が初日から大関以上に4連勝するのは昭和以降初めて[18]。2日連続の金星獲得は、2015年9月場所の嘉風以来、戦後18人目。4日目の照ノ富士戦で決めた逆とったりは、2010年11月場所11日目に魁皇(現・浅香山親方)が日馬富士に決めて以来6年ぶりの決まり手だった[19]。5日目も勝ち、6日目に琴奨菊を破り、6連勝としたが[20]、7日目から13日目まで1勝6敗と乱調、14日目に今場所2度目の逆とったりで白星を挙げ、勝ち越しを決めた。1場所に2度逆とったりで勝利したのは幕内では初となる[21]。2横綱を破ったことが評価され、自身初となる殊勲賞を獲得[22]。本人は、「横綱を倒して勝ち越さないといけない。なかなかできないことだから、うれしい」とコメントを残し、翌11月場所に関脇に復帰することに関して「しっかりやることをやらないと。心の稽古も大事です」と話した[23]。しかし9月場所中(7日目)に痔の切開手術、場所後に根治手術種をうけ、10月の秋巡業を全休。11月場所前になっても傷口がふさがらず、休場も考慮する事態となった[24]。2015年3月場所以来の関脇復帰となった11月場所は序盤から黒星が先行、中日に綱取りを狙う豪栄道に勝利したが、最終的に5勝10敗の成績に終わった。2016年3月場所は8日目の時点で3敗と優勝争いに参加していたが、9日目に4敗目を喫して優勝争いから脱落。それでも残りは11日目以外を勝って10勝5敗。 2017年8月1日の夏巡業豊田場所の時点では下半身の怪我の状態が回復に向かっているため夏巡業の稽古土俵に連日上がり続けており、この日は錦木、正代、豪風と申し合いを行って2勝2敗であった[25]。9月場所は10日目までで4勝6敗であったが、11日目から残りを4勝1敗として8勝7敗の勝ち越し。この場所の千秋楽の日に八角に「お前、下(十両)で取りたいか」と聞かれ、その言葉で引退という現実が突然、目の前に迫ってきた。「落ちたら次はないと思った。焦りが、やっと出た」と「稽古をしない」などと言われてばかりの隠岐の海は本気になった。秋巡業では「お願いします。ジムに連れて行ってください」と、トレーニング理論をよく知る豪風に頭を下げ、巡業地に着くと真っ先に飲み屋に向いた足をジムへと変えて、3日に1度は通った。そのジム通いは福岡入り後も続けていた。ベンチプレスは当初から70㎏もアップした[26]。10月6日の秋巡業横浜場所では6番申し合いを行い、4勝2敗[27]。11月場所は改心して稽古に励んだ甲斐あって10日目に勝ち越し。勝ち越しを決めたのは通算900回出場の取組であった[28]。最終的に11勝を挙げて敢闘賞を受賞[29]。自身が幕内で11勝を挙げたのは2015年7月場所以来。 2018年1月場所は11日目に負け越しを確定させるなど不調であり、12日目から残りを2勝2敗としたものの5勝10敗の大敗に終わった。この場所千秋楽は既に負け越していた身であったが、これより三役に登場[30]。場所後の2月3日は、日程が重なったため例年中尊寺で行っていた節分会を欠席。代役として弟弟子の北勝富士が参加した[31]。3月場所は3日目から5連勝して中日まで5勝3敗と白星先行であったが、14日目までは10日目の嘉風戦以外すべて黒星で大きく失速、千秋楽の碧山戦を勝つも7勝8敗の負け越し。9月場所は一進一退の星取りに終始し、場所中「みんなも病んでいるんじゃないですか。稽古場通りのことができなくて」と暗いコメントを行っていたが、14日目に勝ち越しを確定させた。千秋楽は黒星でこの場所は8勝7敗[32]。11月場所は11日目に勝ち越しを決めるなど好調で、場所を11勝4敗で終えて自身1年ぶりの2桁白星[33]。2018年は2017年に続いて年6場所幕内に在位した力士の中で最も番付が上下した力士となった[34]。 2019年初場所は西前頭4枚目で迎えた。この場所は9日目に大関・豪栄道を押し倒して尻餅をつかせるなど6勝3敗とここまでは好調だったが、そこから5連敗で14日目、関脇・貴景勝に電車道で持っていかれて負け越しが決定した。千秋楽は小結・妙義龍との熱戦を制して連敗を5で止め、7勝8敗で終えた。東前頭6枚目に番付を下げた春場所は、5日目までは1勝4敗と不振だったが、6日目に大の苦手にしている宝富士を上手投げでねじ伏せると、そこから4連勝で5勝4敗と白星が先行。その後も大崩れせず12日目に7勝目を挙げて勝ち越しにリーチをかけたが、給金相撲の13日目はここまで2勝10敗と絶不調の正代にもろ差しを許して一気に寄り切られ、さらに14日目も妙義龍の首投げに裏返しになってしまった。7勝7敗で迎えた千秋楽はここまで10勝を挙げている嘉風を一気に押し出し、何とか勝ち越しを決めた。東前頭4枚目の夏場所は初日から4連敗を喫するなど場所を通して波に乗れず、千秋楽に琴奨菊に敗れて5勝10敗。西前頭8枚目に番付を落とした名古屋場所は、4日目までは1勝3敗と不調だったが、翌日から3連勝。その後は3連敗もあったが、7勝7敗で迎えた千秋楽、同じく7勝7敗だった輝を両上手を取って寄り切り、勝ち越しを決めた。2019年9月場所は初の初日からの8連勝で中日勝ち越しを決めるなど千秋楽まで優勝争いに加わり、11勝4敗の優勝次点で自身11場所ぶり4度目となる敢闘賞を受賞[35]。なお、14日目の遠藤戦では投げの打ち合いになる前に遠藤が土俵から足を出していたため白星となったが、際どい勝負にもかかわらず物言いがつかずに行司軍配で勝負が決したため場内には遠藤の敗戦を理解できない雰囲気が漂った[36][37]。西前頭筆頭と大きく番付を戻した11月場所は、2日目に大関・豪栄道から不戦勝を手にする幸運があったものの、結局は6勝9敗と負け越し、三役復帰はお預けとなった。この場所4日目の横綱・白鵬戦はもろ差しになって寄り詰めたが、土俵際で白鵬の上手投げに裏返しになって惜しくも金星獲得を逃した。 2020年1月場所、3月場所ともに千秋楽に勝ち越し。24場所ぶりの返り三役・西小結で迎えた7月場所(5月場所は中止)は9勝6敗で終え、三役として初めての勝ち越しとなったが、この場所をもう1勝していれば、15日制が定着した1949年夏場所以降で初となる関脇・小結全員2桁勝利の珍事であった(両関脇の正代と御嶽海、東小結の大栄翔は、3人とも11勝を挙げている)[38]。 2023年1月場所は前頭12枚目で臨んだが初日から5連敗し、6日目の13日から休場[39]。14日、日本相撲協会に引退届を提出し受理され、年寄「君ヶ濱」襲名が発表された。引退後は八角部屋の部屋付き親方として、後進の指導に当たる[40]。初土俵から18年107場所に出場した[41]。同日の引退記者会見では「気持ちは楽になりました。ここ何年も自分の相撲、思い切った相撲が取れなかった。若い、上がってきた力士と相撲を取ると、ごまかしもきかない。気持ちで何とかカバーしてきたけど、最終的には自分の気持ちが切れました」と引退の理由を挙げた。引退は「(1月場所の)3日目、4日目ぐらい」に決断し、師匠に報告し了承されたという。思い出の一番には2015年9月場所初日の白鵬を破った一番を挙げた[42]。 引退相撲および断髪式は同年9月30日に国技館で実施され、最後の取組は弟弟子である隠岐の富士を相手に古典相撲の形式で行われた。地元隠岐の島から招かれた後援会関係者などから大量の塩を浴び真っ白になりながら二番の相撲を取り、最後はお互いの廻しを掴んで持ち上げあって健闘を称え、土俵を後にした。続いて行われた断髪式では300人がハサミを入れ、八角親方による止めバサミをもって力士生活に別れを告げた[43]。この引退相撲の際に「隠岐の島から力士を見つけたい。(内弟子の)第1号は隠岐の島からと決めてますから」と内弟子勧誘活動に意欲を示した[44]。 合い口
(以下、最高位が横綱・大関の現役力士)
(以下、最高位が横綱・大関の引退力士)
幕内対戦成績
(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。) 取り口長身に胴長短足、深い懐を活かした四つ相撲が持ち味[45][46]。2013年12月の報道では相撲が遅いことを指摘されており、これに関して本人は「昔は結構、土俵際での逆転負けが多かったんです。早く勝負を仕掛けて負ける。それがあったから、しっかり組んで慌てずにゆっくりゆっくり、というイメージでは確かにやってますね」とコメント[47]。後述の通りお世辞にも稽古熱心とは言い難いが、体の柔らかさもあって隠岐の海の四つ相撲は幕内上位に通用する。かつては良くも悪くも右四つ一辺倒であり、2016年11月場所前の座談会では中立から「技術的には左四つに組んでからの攻めはないし、二本差しもそんなにうまい感じはしない」と評されており、これに対して同じ座談会に出席していた鳴戸は「浅いですよね。だから外から上手を取られてしまう」と評されていた。中立はまた「左四つになったら安心するのか、そのまま構えてしまうことが多い」と批判しており、西岩も「確かに自分から引き付けて寄っていったりとか、前に攻めながら投げを打つとことがないですね」と返していた。それでも鳴戸は「ただ、相手が上手を引いたら体をそっちに寄せるのは上手いですね」とフォローしていた。2017年1月場所前にお笑い芸人達が集まって行われた座談会では「この人は土俵際だね。逆転があるから最後まで目が離せない」とはなわが評している[48]。一方で右でかちあげてから左を差す相撲があるとする2016年の文献もあり、その文献では「前君ヶ濱親方(元関脇・北瀬海)から『もっと気楽にいけ』と言われた。どっちみち今の相撲では横綱、大関には勝てないんだから、左からいって左を差すという一つの型を勉強するのもいいかなと」という本人の発言がある[49]。 現役終盤は左四つ得意の力士として認識されており、2021年時点では芝田山からも「隠岐の海は左四つになると強い」と評されている。大師匠にあたる北の富士勝昭も、同年九州場所5日目に左四つ右上手から大関・正代を寄り切った一番を評して、「隠岐の海は鋭い立ち合いで右上手を引き、左も差して得意の左四つに組み止めた。これは願ってもない体勢である」と述べている[50]。 元々張りの欠ける体つきをしているが、本人は「体つきも幼少期のぜいたくでこうなっただけで、稽古してないからじゃない。体質ってあると思うし、輝だってあんなにけいこをしていてもあれだから。逆にみんなの体が張りすぎなんですよ」と話している[49]。合い口を見ると、関脇以下でもかつては喧嘩四つだった宝富士に弱く、大関昇進以前から高安にも不利である。怪力の相四つ力士でも碧山のように腰が軽く土俵際が脆い力士には強いが、そうではない栃ノ心にはやや分が悪い。大関以上に対しても相四つには比較的強い。2018年1月場所では6日目の支度部屋で「立ち合いは力が入り過ぎて、相手にうまく伝わらない。マッチしていない」などと千代翔馬戦の反省を述べており、立合いの感覚の狂いを自覚しているとも取れるコメントを残している[51]。調子の良い場所だと相手の勢いのある突き押しを耐えて組み止めることができ、2018年11月場所13日目の松鳳山戦はその好例である[33]。 投げの頻度は相当のものであり、2018年は44勝中13勝が投げでの白星で白鵬と並んで最多[34]。2020年9月場所の隠岐の海は相手に「廻しを取られたら勝てない」と思わせる程四つに長けており、この場所7日目の正代戦で相手に攻め急がせて自滅を誘ったのはそれを如実に示した好例である[52]。2021年11月場所5日目の正代戦では師匠の八角に「相撲が(大関と)反対だったよ」と絶賛されるほどの立合い、圧力を誇る相撲を取った[53]。 2021年9月場所後、15代武蔵川は相手に合わせて取れることが仇となって、36歳になるこの年まで自分の型を持たないなまくら四つの取り手に甘んじていると指摘している[54]。 人物評価
稽古嫌い
その他
エピソード大相撲の記録
その他相撲関連
体作り
家族・交友関係
俳優歴
主な成績2023年1月場所終了現在 通算成績
各段優勝
三賞・金星場所別成績
改名歴
脚注
注釈参考文献
関連項目外部リンク
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