伊勢ノ海部屋伊勢ノ海部屋(いせのうみべや)は、日本相撲協会所属で時津風一門の相撲部屋[1]。 歴史9代伊勢ノ海(元小結・柏戸)が、独立を志していた春日山部屋の幕内・藤ノ川を譲り受ける。藤ノ川は1942年(昭和17年)5月場所から伊勢ノ海部屋ゆかりの柏戸と改名して、9代伊勢ノ海と共に伊勢ノ海部屋を再興した。しかし、1946年8月に9代伊勢ノ海が亡くなったため、部屋の力士たちは再び錦島部屋に所属し、時津風一門に合流することになった。 柏戸は1949年1月に現役を引退して年寄・10代伊勢ノ海を襲名して伊勢ノ海部屋を再興し、横綱・柏戸や関脇・藤ノ川といった関取を育て上げた。 3代伊勢ノ海から「柏戸」の四股名を名乗った者が年寄・伊勢ノ海を代々継承してきたが、1982年12月に10代伊勢ノ海が亡くなった際に、この時期には既に鏡山部屋を興して独立していた元横綱・柏戸こと7代鏡山が、本来ならば継承するはずの伊勢ノ海襲名を固辞したために、8代続いた伝統が途絶えてしまった。そのため、年寄・10代立川を襲名して伊勢ノ海部屋の部屋付き親方となっていた柏戸の弟弟子の藤ノ川が11代伊勢ノ海を襲名して伊勢ノ海部屋を継承した。11代伊勢ノ海は継承後、部屋を墨田区両国から江戸川区春江町の旧九重部屋に移転した[2]。11代伊勢ノ海が師匠を務めた時期には、関脇・土佐ノ海や幕内・藤ノ川、北勝鬨などといった関取を輩出した。 2011年9月場所千秋楽に11代伊勢ノ海が定年退職を迎えたため、伊勢ノ海部屋の部屋付き親方である11代勝ノ浦(元幕内・北勝鬨)が11代伊勢ノ海と名跡交換する形で12代伊勢ノ海を襲名して伊勢ノ海部屋を継承した。部屋継承後、12代伊勢ノ海はそれまでの東京都江戸川区春江町から現在の東京都文京区千石へ部屋を移転した。12代師匠の自宅がある5階建てマンションを改築、1階に土俵を作り、4階までを部屋が使用している[3]。2021年7月21日に先述の鏡山部屋が閉鎖になったため、8代鏡山(元関脇・多賀竜)ら同部屋所属の協会員全員を受け入れた[4]。2022年8月には13代高島(元関脇・髙望山)が宮城野部屋から転属した(2024年1月に追手風部屋へ再転属[5])。2024年4月には陸奥部屋の閉鎖に伴い、現役続行を選択した4人の力士のうち1名(日煌)を受け入れた[6]。 現在までに、12代伊勢ノ海は先代からの弟子である関脇・勢や小結・錦木といった関取を育てている。 江戸時代からの伝統を持つ部屋として、多くの所属力士には一人一人江戸時代からの部屋伝統の四股名を授け、命名の際は親方がその由来をきっちりと教え込む[7]。そして出世に伴ってより大きな四股名を名乗らせ、最終的には「柏戸」を目指すこととなる。これは昨今の四股名の主流となっている「親方の現役時代の四股名から一字取る」とは一線を画している。 所在地師匠
部屋付き親方
力士現役の関取経験力士横綱・大関
幕内
十両行司旧・伊勢ノ海部屋1757年に江戸の大相撲で初めて縦番付が発行させた際にはもう既に存在しており[9]、このように江戸時代から続く伝統を持つ部屋であったが、大正末期には衰退していた。尾車部屋分裂の際には、当時の師匠であった8代伊勢ノ海こと柏戸宗五郎が、関脇・三杉磯と彼に従っていた弟子たちを伊勢ノ海部屋に預かっていたが、1929年(昭和4年)に三杉磯が引退して花籠部屋を興したため、本家の伊勢ノ海部屋から所属力士が一気に抜ける事態となった。その後、1933年1月場所限りで幕内・雷山を始めとする弟子たちを錦島部屋に預ける形で伊勢ノ海部屋は消滅した。 脚注注釈出典
外部リンク
座標: 北緯35度43分32.6秒 東経139度44分44.2秒 / 北緯35.725722度 東経139.745611度 |
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