藤ノ川武雄
藤ノ川 武雄(ふじのかわ たけお、1946年9月26日 - )は、北海道河東郡音更町出身で伊勢ノ海部屋に所属した元大相撲力士。本名は森田 武雄→祥玄→武雄。身長178cm、体重108kg。得意手は突き、押し、右四つ。最高位は西関脇。拓殖大学第一高等学校卒業[1]。小柄さと機動型の相撲から土俵のキャッチフレーズが取り分け多かったことで知られており活字になったものだけでも今・牛若丸[1]、ちびっ子ギャング、小さな巨人、鉄腕アトム、土俵のクレイ、ベトコン、忍者、土俵の魔術師など多数確認される[2][注釈 1]。 来歴拓殖大学に在籍していた次兄(のち警視庁柔道師範の森田祥業[4])から話を聞いた伊勢ノ海親方のスカウトを受けて上京し、東京の墨田区立両国中学校在籍中の1961年(昭和36年)5月場所、伊勢ノ海部屋より初土俵。前相撲では一番出世で、さらに1962年(昭和37年)1月場所では史上初の中学在籍中に三段目昇進を果たした[5]。両親の意向を師匠も汲んで中学卒業後に拓大一高へ進学し、高校時代は拓大相撲部でも稽古を積んだ[5]。幕下下位にいた頃に「小柄だから相撲は無理だ。高卒後は拓大へ入れてやる。」と次兄から打診されたことで学業を選び相撲を辞めることも考えたが、帰郷した際に廃業を申し出ると母が泣き出したため思いとどまった[6]。結果として、高校は出席日数が足りずに1年留年したものの卒業を果たし、さらに1965年(昭和40年)11月場所では幕下7枚目で全勝優勝を果たし高校在籍中に新十両を決めた[7][8][6]。1966年(昭和41年)1月場所新十両、同年11月場所に戦後生まれの力士として初の新入幕を果たした。入幕3場所目で同門の大関・豊山、横綱・佐田の山を下した星などで12勝3敗の好成績をあげ殊勲・技能賞をダブル受賞、翌場所入幕4場所目にして関脇に昇進[1][3]。以後横綱柏戸剛の弟弟子でもあり「今牛若」「ちびっ子ギャング」などの異名をとった相撲振りや力士にしてはスマート[7]な体型や渋い容姿から人気を博し、三賞も7回受賞する活躍をした。一方で恥ずかしがり屋でも知られ、「土俵は別だけど大勢の人の前に出るのは嫌。マゲをつけてジロジロ見られるのが嫌」などと語るような人物であったため土俵外の話題には乏しかった[2]。ちなみに大鵬の45連勝目の相手(1969年(昭和44年)3月場所初日)でもある。当初はただ頭からぶつかるように指導されたことで新三役の時期まで本人が「右の耳がわいている(耳がこすれて変形すること)のを見ればわかるように、私は典型的な右四つ、右差し」と認識する相撲ぶりに徹していたが、稽古場で頸椎を痛めてしまったことで自信があった握力が神経の圧迫で失われてしまい、以降は動き回る相撲に変わっていった[8]。 1969年(昭和44年)7月場所では前頭5枚目で12勝3敗の成績を挙げ、大関・清國と優勝決定戦[9]を行い敗れはしたが、敢闘・技能賞を手にする活躍を見せた[1]。1971年(昭和46年)7月場所6日目、前頭7枚目義ノ花戦で左足を負傷して7日目より休場してからは、持ち前の動き回って取る相撲が取れなくなり、幕内下位と十両を低迷するようになった[3][注釈 2]。結局1972年(昭和47年)7月場所幕内に返り咲いたものの、11月場所で十両に陥落し場所前に引退を表明。年寄・立川を26歳という異例の若さ[注釈 3]で襲名した[3][1]。 引退後は、伊勢ノ海部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、1982年(昭和57年)12月に先代師匠(元前頭・柏戸秀剛)が死去したことに伴い、伊勢ノ海部屋を継承した。自身が師匠を務めていた時期は、関脇・土佐ノ海(後に立川の名跡を譲渡)や幕内・藤ノ川、北勝鬨(後に伊勢ノ海部屋を継承)をはじめ、5人の関取を輩出した一方で「指導に自信がないからです。ないんだったら入れない方がいい。それだけ師匠には責任があるんです。」という理由で[10]、外国人力士は採用しなかった。 2002年(平成14年)から日本相撲協会の理事に選出され、総合企画部長としてファンサービス企画の総責任を負っていたが、2007年(平成19年)に八百長疑惑や横綱・朝青龍問題、時津風部屋力士暴行死事件など空前の難問が一挙に噴出するという難局に見舞われ北の湖理事長の参謀として窮地に立たされた。この問題で記者会見等で北の湖に代わり報道陣に対し協会としてのコメントを発表する場面が度々見られ、年寄時代晩年期は各不祥事の「再発防止検討委員会」など委員長職を任され事件の根絶に忙殺された[7]。2010年(平成22年)1月の任期満了をもって理事を退任した。停年直前には「敢闘精神評価」のアンケートを取り入れ、これが2018年3月場所現在でも館内での名物として存続している[10]。同年2月から2011年(平成23年)1月まで相撲博物館館長代行。 停年を前に下の名前を「裕己茂」から初代伊勢ノ海親方、中断を挟んで7代目から10代目に当たる先代の伊勢ノ海親方が引退後、数年間名乗っていた「五太夫」に改名[注釈 4]。 2011年(平成23年)9月25日(9月場所千秋楽)、弟子の幕下・勢(当時)が新関取昇進の内定を得たことを見届けながら日本相撲協会を停年退職。伊勢ノ海部屋は弟子の北勝鬨の勝ノ浦親方が12代伊勢ノ海の名跡と同時に継承した。なお、この日のみ12代伊勢ノ海と名跡を交換して勝ノ浦となっていたため、停年後もしばらく勝ノ浦の名跡を所有していた[注釈 5]。 2018年(平成30年)3月26日、日本相撲協会の評議員に就任[11]。 敢闘精神評価アンケート大相撲八百長問題の再発防止策を検討する「大相撲新生委員会」が2011年3月9日に両国国技館で第1回の会合を開いた際、敢闘精神評価アンケートの原型とも言うべき案が議論された。当初の案としては、土俵下の「たまり席」を利用する300人の維持員に対しマークシート方式のアンケート用紙を配布し、敢闘精神あふれる相撲には5点満点、逆に無気力相撲と言われても仕方ない内容には1点、という具合に5段階の点数を付けてもらい、その点数を集計して発表するというものであった。実際に2011年9月場所から伊勢ノ海が導入したものは1000人の来場者にアンケート用紙を配り、十両以上の力士を対象として見ごたえのある取組に1点から4点までのポイントを付けてもらう方式である。2012年3月場所からは携帯電話での投票方法に変更され、それ以来アンケート用紙の代わりにQRコードつきの投票方法案内書が配布されるようになった。同時にアンケート対象者は来場者だけでなく、日本相撲協会公式携帯サイト「大相撲」の有料会員も加えられることになった。[12][13][14]現在本場所中はその日ごとに敢闘精神評価アンケートのポイントを集計し、幕内・十両部門それぞれにおけるポイント上位3力士が日本相撲協会の公式サイトで発表され、場所後には得票上位力士の票数が雑誌『相撲』に掲載される形となっている。 主な成績
場所別成績
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
改名歴
年寄名歴
脚注注釈
出典
関連項目 |