大位山勝蔵
大位山 勝蔵(おおいやま かつぞう、1945年3月5日 - )は、兵庫県宍粟郡山崎町(現在の宍粟市)出身(本籍地は、同県姫路市)で三保ヶ関部屋に所属した元大相撲力士、国際プロレス所属の元プロレスラー。 本名は松本 勝三(まつもと かつぞう)。力士時代の四股名は三保ノ松および大位山、プロレス時代のリングネームは大位山 勝三。相撲時代の得意手は、右四つ、寄り、押し。最高位は東前頭12枚目(1968年11月場所)。 来歴相撲時代地元・山崎町の中学校を卒業後、三保ヶ関親方(元大関・増位山)の関係者の紹介で三保ヶ関部屋に入門し、1960年5月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、部屋の名と本名の松本に因んだ「三保ノ松」[1]。横綱:北の湖、大関:増位山(2代目)の兄弟子に当たる。 その後序二段94枚目まで進むも、1961年1月場所後に、家庭の事情により廃業する。しかし師匠が廃業届を提出しなかったため、相撲協会に籍を残すことが出来た。これにより再入門が許されている。[2]1962年3月に再度、三保ヶ関部屋に入門。この時の四股名が「大位山」となり、これ以降は再廃業まで通した(下の名は当初は本名の「勝三」、後に「勝蔵」とした)。右を差して左でおっ付ける取り口を得意とし、1967年11月場所で十両昇進、1968年11月場所で新入幕を果たした。 しかし緊張する性格で力を出し切れず、攻めが遅かったこともあって新入幕の場所は4勝11敗と大きく負け越し、幕内は僅か1場所のみとなる。以後は1年以上十両に留まり、1970年5月場所では東十両9枚目の地位で3勝12敗と惨敗して幕下陥落が決定的となったため、この場所を最後に25歳で廃業した。 プロレス時代力士引退(廃業)後は錦糸町の飲み屋で働きつつ、当時渋谷にあった国際プロレスの道場に通っていた[3]。ベンチプレスを黙々とこなしていたものの、当初は「練習に毎日来ていないから」と入寮を許されなかった[3]。しかし、同じく練習生だった田中隆雄(後の鶴見五郎)が入寮条件について伝えると、大位山は毎日練習に通うようになっていく[3]。 1971年6月、公開形式のテストで田中と対戦して合格。入団後はストロング小林の付き人となった。同年9月8日、栃木県矢板市体育館で本郷清吉の胸を借りてデビューする。前日はシリーズ開幕戦でテレビ収録があったが、あえてそこを外しての初陣であった。同期のジェラール・エティフィア(後の稲妻二郎)が7月2日、田中(鶴見)は7月12日のデビューだったが、本人は彼らに遅れを取ったことについて「特に焦りは無かったね」と後年のインタビューで述懐している[4]。 同年9月13日、大阪府立体育館における小林とレッド・バスチェンのIWA世界ヘビー級王座戦のアンダーカードとして鶴見と初対戦(10分間時間切れの引き分け)。その1週間後の福岡市九電記念体育館での鶴見から初勝利を収めた試合に関しては、2016年の鶴見との対談で鶴見が大位山に対して「張り手からのボディ・プレスとか、簡単なフィニッシュだったと思うよ」と話している[4]。11月4日の石川県小松体育館の試合では鶴見が大位山に初勝利。最終的な戦績は大位山の2勝1敗9分である[4]。 ヘビー級の体格であったことから、1972年春に行われた『第4回IWAワールド・シリーズ』では、リーグ戦には未出場だったものの、公式戦外でジョージ・ゴーディエンコ、バロン・フォン・ラシク、レイ・ゴールデン・アポロン、ティト・コパらと対戦した[4][5]。同年6月、アメリカ武者修行に出発。テネシーのNWAミッドアメリカ(後のCWA)において、グレート・フジ(Great Fuji)をリングネームに日本人ヒールとして活動[6]。トージョー・ヤマモトをパートナー兼マネージャーに迎え、トニー・チャールズ、ジャッキー・ファーゴ、フランキー・レイン、ビル・ドロモ、ジョニー・ウォーカー、ケン・ルーカス、そして若手時代のジェリー・ローラーやケビン・サリバンなどと対戦した[7]。 1973年6月、海外武者修行から帰国。凱旋帰国第1戦では初来日のリック・フレアーに反則負け、第2戦ではアニマル浜口と組んでディック・マードック&スカンドル・アクバから勝利を収めている[8]。デビュー当時のリングネームは本名の「松本勝三」であったが、同年9月開幕の『第5回IWAワールド・シリーズ』より、相撲時代の四股名を冠した「大位山勝三」へ改名[9]。この時もリーグ戦には未出場だったが、開幕戦の日大講堂大会ではメインイベントの6人タッグマッチで小林&ラッシャー木村とトリオを組み、ラーズ・アンダーソン、ムース・ショーラック、フリッキー・アルバーツ組と対戦した[10]。1977年の『第6回IWAワールド・シリーズ』では、同時開催されたIWA世界タッグ王座争奪トーナメントにもエースの木村と組んで出場したが、1回戦でビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘスに敗れた[11]。 その後、第1試合など前座中心にマッチメイクされることに対して不満を募らせ、1979年に一時引退する[12]。以後浅草でしゃぶしゃぶ店「大位山」の経営を経て[12]、魚の加工会社で働いていた[13]。 1979年末に国際プロレス内で、鶴見が社長の吉原功と反目して選手会を除名されたというアングルのもと、団体へ造反してヒールに転向。同時期、大位山が働いていた加工会社の社長も国際プロレスと懇意だったこともあり、マイティ井上の後押しで1980年1月に現役復帰。鶴見とのコンビで日本人初のヒールユニット「独立愚連隊」を結成するに至った[13]。 鶴見は「独立愚連隊」について、吉原が鶴見を活かすために考えてくれたと語っている[14]。初めは鶴見一人の造反であったが、大位山が加わったことで日本人選手によるヒールユニットの登場となり、外国人レスラーの渡航費など経費削減に繋がったという[14]。マネージャーはミスター珍が務め、同年4月4日には鶴見とのタッグで山本小鉄の引退試合に出場するなどの抜擢を受けた(山本のパートナーは「ヤマハ・ブラザーズ」の星野勘太郎)[15]。「独立愚連隊」の戦績は13勝(2反則勝ち)38敗(10反則負け)12分と振るわなかったが、鶴見は「勝ち負けなんかより、1年3ヶ月で60戦以上も大位山さんと組んで暴れられたことが何よりも楽しかった。良い思い出だよね」と述懐している[16]。 1981年には『ルー・テーズ杯争奪戦』後期予選に出場したが、当時の国際プロレスは末期的な経営状態となっており、その時のファイトマネーは1週間に1万円だったという。巡業途中の3月19日を最後に離脱、そのまま引退した[13]。国際プロレスが崩壊する5か月前のことであった。 その後プロレス界からは離れていたが、1995年にレスリング・ユニオンやIWA格闘志塾のリングに特別参戦[17]。IWA格闘志塾では鶴見とのシングルマッチも行われた[18]。 エピソード
得意技大相撲での主な成績
幕内対戦成績
改名歴
参考文献
脚注
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia