谷風梶之助 (2代)
谷風 梶之助(たにかぜ かじのすけ、1750年(寛延3年)9月8日(旧暦8月8日) - 1795年(寛政7年)2月27日(旧暦1月9日))は、陸奥国宮城郡霞目村(現:宮城県仙台市若林区霞目)出身で伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。本名は金子 与四郎(かねこ よしろう)。 概要江戸時代に活躍し、大相撲史上屈指の強豪[1]とされる。また、力量・人格の面において、後の横綱の模範とされたが現役中に死去した。この項で扱う谷風は二代目だが、後年の文献などから「初代」と扱われる場合も少なくない[2]。初代は元禄時代の大関で「讃岐の谷風」と称されていたが、これに対して本項目で記す谷風は「仙臺(仙台)の谷風」と称されていた。 歴代横綱では第4代横綱と扱われるが、史実においては初の横綱と見ることができ[3]、事実上の初代横綱[注 2][4]。 来歴幼少期からの怪力1750年(寛延3年)9月8日(旧暦8月8日)に陸奥国宮城郡霞目村(現:宮城県仙台市若林区霞目)で百姓一家に長男として生まれる。先祖が長期に渡って国分家の家臣として流鏑馬の矢取りを務めており、苗字帯刀を許されていたという。7歳の時、隣家の主人だった東兵衛から「あの俵を運べたらそれをやろう」と言われて玄米の五斗俵を持って運ぶと、幼いながらもその怪力に驚いた東兵衛はすぐに謝罪し、その場にあった饅頭と取り替えた。入門前には白川の酒造家に奉公していたが、通常は7人程度でようやく持ち上げられる酒を搾る締め木の天秤石をたった一人で持ち上げたと伝わる。 1768年(明和5年)に力士となり、「秀の山」と四股名を名乗った。1769年(明和6年)4月場所には伊達関 森右エ門(だてがせき もりえもん[1]と改名し、看板大関として初土俵を踏む。「伊達関」の四股名は仙台藩の伊達氏より下賜されたものだが、翌場所から伊達の姓を憚り、達ヶ関と改名した(読みは「だてがせき」のまま)。1770年(明和7年)11月場所に前頭筆頭から再スタートを切ると徐々に地力を増し、1776年(安永5年)10月場所に2代目「谷風 梶之助」と改名、1781年(天明元年)3月場所後に大関へ昇進する。1784年(天明4年)には江戸相撲の浦風与八に見出され、江戸に来ていた雷電爲右エ門を預り弟子として鍛え上げたほか、小野川喜三郎や雷電とともに、最初の黄金時代を築いた。後述する横綱制度や結びの一番終了後に執り行われる「弓取式」など、現在も残る相撲界の仕来りの多くがこの時代に作られた。 全盛期・横綱免許安永8年(1779年)から全盛期に入り、同年9月場所(京都)から天明6年(1786年)11月場所(江戸)までの7年間で、本場所に敗れたのは天明2年(1782年)7日目の小野川喜三郎のみ、という大記録を打ち立てる。その間に声望はカリスマ的なものとなり、江戸相撲最大の黄金時代の立役者となった。小野川に敗れた後の連勝記録は、一説には現代にいたるまでの最高記録とされるが、連勝の数え方については異論がある(後述)。 1789年(寛政元年)11月19日[5]、小野川喜三郎と共に吉田司家から最初の横綱免許を授与された。これが事実上の横綱制度発祥とする見方が定説で、当時の錦絵には市川團十郎などの歌舞伎役者や当時の美女などと共に谷風が描かれている[6]。1791年(寛政3年)6月11日には徳川家斉の上覧相撲で小野川との取組を行い、この時に将軍家から賜った弓を手に、土俵上で舞ってみせたのが現在の弓取式の始まりとされる。 現役死1795年2月27日[7](寛政7年1月9日)[8]、江戸全域で猛威を奮ったインフルエンザによって、35連勝で現役のまま没した。44歳没。このことから風邪を「タニカゼ」と呼ぶようになったと伝えられているが、正しくは、谷風が生前に「土俵上でわしを倒すことは出来ない。倒れているところを見たいのなら、わしが風邪にかかった時に来い」と語った頃に流行っていた流感を「タニカゼ」と呼んだものである。死因となった流感は「御猪狩風」と呼ばれたが、後に「タニカゼ」と混同されるようになった。 没後谷風の没後、出身地である宮城県仙台市では昔から俚謡で「わしが国さで見せたいものは、むかしゃ谷風、いま伊達模様」と謡われ、現在でも伝わっている[9][1][10]。谷風の墓は1928年(昭和3年)に参道設置や周辺整備が行われたが、大日本帝国陸軍飛行学校の仙台飛行場(現:陸上自衛隊霞目駐屯地)の拡張に伴い、1942年(昭和17年)に仙台市若林区霞目へ移転した。2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災で墓石が大きく動いたが、幸いにも背後の木に支えられて倒壊を免れた[11]。なお、墓の東方には「霞目字谷風」という地名が残るほか、仙台駅西口には「谷風通[12]」との愛称が付けられた道路がある[13]。 仙台市青葉区の勾当台公園には、谷風像が設置されている(北緯38度15分59.6秒 東経140度52分19.9秒 / 北緯38.266556度 東経140.872194度)。新横綱が誕生してから最初に行われる仙台巡業の際には、この谷風像の前で新横綱による土俵入りを奉納するのが恒例となっている[14]。 人物横綱としての力量だけでなく、人間的にも立派で品格抜群である[15][1]ために、谷風は歴代横綱の第一人者と称され、実質的な初代横綱として模範とされる大横綱である[15][10]。天下無双の大横綱に相応しい実績から、四股名「谷風」は2019年現在においても「止め名」とされており、1901年(明治34年)1月場所終了後に大砲万右エ門が横綱に昇進する際に周囲から襲名を勧められたが、「笑い者になりたくない」と言って固辞したという。 全盛期の体格は身長189cm・体重169kgのあんこ型で、足袋の中には白米が一升五合入ったと言われる。また、谷風の末裔の家に保管されている大腿骨は約48cmあり[16]、大腿骨は法医学的には身長の1/4ほどと言われているが、4倍すると192cmとなり、言い伝えられている身長が決して誇張ではない(むしろ低く見積もっている)ことを示す証拠となっている。なお、谷風のものと伝えられている手形を記載した江戸時代の書物(復刻本)も存在する[17]。 実力、品格の反面、晩年は大変気難しい部分もあったとされており、1790年(寛政2年)に入った頃には15歳程度だった妾が取り成さないと稽古場にも現れなかったという事実が数々の古典や文献に記されている。三木貞一の随筆によれば、ある時、既に横綱免許を授与されていた谷風は弟子のことで「殴り殺してやる」と言い放つほど激高しており、他の多くの弟子が揃って詫びを入れても聞き入れず、それどころかますます腹を立てていたところに、弟子の一人が当時17歳だった谷風の妾を呼び、自室に籠ったまま出てこない谷風を宥めたことであっさり事が収まったとされている[18][2]。 エピソード
主な成績江戸相撲の本場所のみを示す。
江戸本場所における通算成績は、49場所で258勝14敗16分16預5無112休、勝率.949である。優勝相当成績は21回を数え、現在の年6場所制で大横綱とよばれる貴乃花光司(優勝22回)、北の湖敏満(優勝24回)などに比肩する優勝回数を、現在の3分の1しかない年2場所制で達成した計算となる。また、江戸本場所で優勝20回以上、50連勝以上、通算勝率9割以上を達成したのは、大相撲の長い歴史の中で谷風だけである。 連勝記録谷風の連勝記録としては、安永7年3月場所から天明2年2月場所にかけて記録された「63連勝」が定説であるが、この時代の興行形態は後世のものと異なるため、後世の記録と比較するための連勝のカウント方法については諸説ある。 まず、谷風が現役であった当時は、数字的な記録に関する関心は薄く、これは時代が下っても続いた。連勝記録が注目されるようになったのは、1938年5月場所に双葉山定次がこれを越える連勝記録(最終的に69連勝まで伸ばし、これが一般的に現在までの歴代1位とされている)を達成したときである。そのときまで、一般のメディアでは全く話題になっていなかったが、酒井忠正は既に過去の記録を調査して、谷風の63連勝が従来の最高記録である、と認めていた。だが彼は「このことを双葉山に話したなら、そのために心を乱し固くなりはせぬかと、ことさら秘めて」、64連勝が達成された日の夜に「初めて双葉にそのことを話し成功を祝した」という[21]。そして場所後、『相撲』誌に掲載した「双葉山と古今先人の比較」[22]で、双葉山が谷風の記録を破る「未曾有の新記録」を樹立したと公表した。以降、この酒井による「63連勝」説が、事実上の公式記録として知られるようになる。 ただし、谷風の現役時の興行形態を勘案した場合、以下の二点において、成績をどのように解釈するかが、問題となる。
1971年、池田雅雄が『相撲』誌に連載した「歴代横綱正伝」で、京阪場所も含めた谷風の取り組み表を発表した[23]。これによって、以上の場合分けを掛け合わせると、四通りの数え方が考えられる。
池田の調査以降は、(ウ)の解釈による記録も知られるようになった[26]。この解釈によれば、(ア)の記録が1782年(天明2年)2月場所7日目に小野川喜三郎に敗れて止まったあと、翌8日目から1786年(天明6年)11月場所3日目まで98連勝を達成しており[27][9]、2023年現在でも未だに破られていない最多記録となる。ちなみに、上述の小野川戦の黒星の前の連勝は、1779年(安永8年)9月場所(京都)4日目からの84連勝(五人掛け4を含む。また、勝敗不明の日を一つ挟む[28])であり、小野川との対戦で勝利していれば、江戸・京都・大坂を通じて183連勝を達成していることとなる。 一方、(イ)(エ)のように、分・預・無勝負でも中断するという解釈によれば、谷風の連勝は大きく減少する。これについて酒井忠正は、江戸時代には現在のような取り直し制度が無く、双葉山もその時代であれば両國梶之助(瓊ノ浦)戦での物言いや、玉錦三右エ門戦での水入りが分・預になっていた可能性があることから、谷風の連勝を分・預などで中断するのは酷であるとしている[22]。だが、池田雅雄は「預りの相撲内容をつぶさに検討すれば、谷風の不利の場合のほうが目立って多い」、『角抵著聞』に「勝負なし、もめ(物言い)は大方負けなり」と批評されていることから「双葉山に破られるまで157年間もレコードを保持した」などという論は成立しないという [29]。能見正比古も、江戸時代は分・預・無勝負などの曖昧なルールが、横綱大関を傷つけないように用いられることがしばしばあり[30]、抱え大名の勢力関係によって星が動かされていた可能性もあるとして、明治以前の連勝は参考記録にとどめておくべきだとしている[31]。 なお、現在有力説の「63連勝」は、2010年に白鵬翔が達成しており、谷風の連勝記録は2位タイである(白鵬も、白星のみの63連勝である)。 脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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