豊実村 (鳥取県)
豊実村(とよみそん)は、鳥取県気高郡にあった自治体である。1896年(明治29年)3月31日までは高草郡に属した。 概要現在の鳥取市大塚・嶋・下段・大桷・野坂・宮谷に当たり、千代川支流の野坂川中流部に位置した。東は山を境として東郷村と、西は山を境として松保村と、南は明治村と、北は大正村と隣接した[2]。なお世紀小学校区の南部(旧豊実小学校区)はこれに旧明治村の上段の全域および尾崎・上原の各一部(大部分)を含む[3][4]。 この地区は鷲峰山の噴火によって造られた谷の一つである。放射状に流出した溶岩が北方に向かって展開し数箇所の谷を造り、野坂谷はその東の谷であった[2]。 当地は古くから野坂郷と呼ばれてその名が踏襲されていたが、町村制施行の際に米の産地を象徴して豊実村と命名された[5]。 農業は米麦を主としていたが藩政時代には藍の栽培も盛んであった。明治から戦前にかけては桑園が導入され養蚕業も発展したがその後激減し、変わって葉煙草の栽培や山間部では果樹の栽培が著しく進出した[5]。 災害当村を貫流する野坂川は河床が高くしばしば洪水毎に氾濫し、1912年(大正元年)、1918年(同7年)、1923年(同12年)は特に大きく大正の三洪水と呼ばれた。1912年9月23日には堤防決壊や田畑・橋梁などの流失が発生した。1918年9月14日の大洪水では小学校校舎や役場庁舎も流失し、重要書類や記録が失われた。そのため野坂川の改修工事が1927年(昭和2年)に着工され1934年(同9年)に完了した[2][5]。 1913年(大正2年)4月5日に野坂で大火災があり57戸を全焼し羅災者256名、さらに1934年(昭和9年)にも16戸が全焼し、同集落で火災禍を免れて現存する者は僅かに数えるほどしかいなかった[5]。 1943年(昭和18年)の鳥取地震では当村が震源地となり、小学校校舎が倒壊したのを始め野坂・宮谷で46戸の倒壊家屋があり死者6名を出した[5]。 沿革
行政歴代村長前述の通り、1918年(大正7年)9月14日の野坂川氾濫による役場流失のため、それ以前の正確な就任退任日は不明である。職員録や各集落・個人の保管する文書によって判明した村長を記す。
教育交通藩政時代には鳥取城下を中心に街道が整備されたが、当地区には鳥取 - 吉岡 - 鹿野 - 青谷に出て伯耆街道に合する鹿野往来があった。野坂は鳥取〜吉岡間の主要地であったため宿駅が置かれていた[2]。 また旧藩時代から明治にかけては水路が用いられ、野坂川から千代川への舟便が利用された。当時の道幅は狭く路面が悪かったことから多量の荷を運ぶためには舟で運ぶ方が便利であった[2]。 1911年(明治44年)に徳尾〜拝殿間里道の約4.8kmが直通の道路に改修され、県道となってから更に16kmの一貫線となり幅員も6mに拡張された(現在の県道49号)[2][5]。 脚注
関連項目 |