莫言
莫言(ばく げん、モー・イエン、1955年2月17日 - )は、中華人民共和国の作家。中国共産党員。本名は管謨業(かん ぼぎょう、グワン・モーイエ)。 人物1955年2月17日、山東省高密市で農民の子として生まれる[2]。本名は管謨業[3]。 筆名の「莫言」は「言う莫(なか)れ」を意味する。莫言は幼少期から非常に話好きで、母はこの事を非常に心配し何度も言葉を慎むようにと注意していた。しかし、人前に出ると一向に話が止められない莫言は、母の忠告に背いてしまう事の後悔から筆名に言う莫れの意味を込めて「莫言」と名付けた[4]。 幼少期の生活と創作動機莫言の幼少期は1500万~4000万の犠死者が出たとされる[5]毛沢東の大躍進政策(1958~61年)と重なっており、彼自身も飢餓に苦められていた。当時の体験について次のようなエピソードを語っている。 ・樹上の葉を食べ、それが無くなると樹皮、樹皮を食べつくすと樹の幹をかじって空腹をしのいだ[6]。 ・小学校に馬車一台分の石炭が運ばれてきた際、皆で群がり石炭を食べた。その石炭は咬めば咬むほど美味しく、それを見た村の大人たちも小学校に押しかけ食べ始め、奪い合いが起きた[7]。 ・一切れの豆糟玉欲しさに子供たちで村の食料保管係を囲み犬の鳴き声を真似、保管係が豆糟玉を遠くに放り投げた瞬間、皆で一斉に駆け出し奪い合うなど、人格の尊厳を失ってまで食料を求めていた[8]。 1967年、文化大革命により小学校を5年で中退[9]。中退後は毎日放牧をして過ごしていたため、話し相手は牛と雲、野鳥のみであった。莫言は自身の話好きを、この放牧時代についたものだと語っている[10]。 莫言の作家になろうという決意はこの幼少期の飢餓と孤独からきている。 2000年3月のスタンフォード大学における講演では、創作の動機について述べた。莫言の隣人の1人に、反革命派とみなされ大学を退学、農村に送り出された学生がいた。莫言の過酷な農村暮らしと辛い労働の中で、最大の楽しみはその学生と食べ物の話をすることであった。ある日、老人が彼らに餃子の話をし、それを聞いていた学生が莫言に「知り合いの作家が本を一冊書いて数千万の原稿料を貰い、毎日3回餃子を食べている」と話した。莫言はそれを聞いて「作家になりさえすれば1日に3度も餃子が食べられる、なんと幸せな人生であるか」と思い、大きくなったら必ず作家になろうと決意したという[11]。 しかし、彼はその後人民解放軍に入隊し、執筆活動には至らなかった。入隊から5年が経ったある日、隊員としての生活に将来の望みがなく退屈で、かつ暇だという思いを抱き、小説を書き始めた。これが彼にとって第2の創作動機である。この時の彼の執筆の目的は、原稿料を稼ぎ腕時計を買いたい、名誉欲を満足させたいというものに変わっていた[12]。
影響を与えた人物2007年12月9日、山東理工大学で自身の文学を振り返り「最初は自覚せずに蒲松齢と同じ道を歩いていた。その後は自覚的に蒲松齢を自らの手本として創作するようになった」と述べている[13]。莫言は創作を始めた当初、左翼文学思想の影響を受けており、小説とは宣伝の道具であるべき、党の政策に沿っているべき、多くの政治的任務を負わなくてはならぬ、そのためには嘘の作り話をしなくてはならないと考えていた[14]。しかし解放軍芸術学院で学ぶうちに、小説は政治とそれほどまでに関係を持ってはならないことに気づく。蒲松齢はこの事を300年前に実践しており、常に人物を第一として生き生きとした小説人物イメージの作成を最高目標としていた。この蒲松齢が実践していた創作の道に無意識に従い始めたからこそ、自らの作品群がそれなりの成功を収めたのだと回顧している[15]。 莫言は蒲松齢のディテール描写を特に賛美しており、あたまの暮らしの中の常識的、経験的なディテールが蒲松齢の幽霊や妖怪の小説に豊かな人間の暮らしの息吹を与え、迫真の物語に仕立て上げ大きな説得力を与えるのであり「これこそが蒲松齢がディテール描写の面において現代作家に残して下さった学ぶべき財産だ」と述べ、2006年1月に出版した、人が死後豚や犬などに変身する物語『転生夢現』が、まさに蒲松齢のディテール描写へのリスペクトを表した作品であると語っている[16]。
経歴彼は60年代の文化大革命で小学校中退を余儀なくされ、1976年人民解放軍に入隊、1982年には将校に抜擢され、1984年解放軍芸術学院文学部に合格。在籍しながら執筆活動をはじめ、1985年の『透明な人参』で作家デビューを果たす[17]。故郷を舞台に抗日戦争を描いた『赤い高粱』(1988年)は張芸謀(チャン・イーモウ)監督によって1987年に映画化され(邦題『紅いコーリャン』)、1988年のベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した。また、『白い犬とブランコ』も2003年に霍建起(フォ・ジェンチイ)監督によって映画化され(邦題『故郷の香り』)、第16回東京国際映画祭東京グランプリ賞を受賞した。 作風ガブリエル・ガルシア=マルケスやウィリアム・フォークナーの影響を受け、マジックリアリズムの手法で中国農村を幻想的かつ力強く描く作風。作品中に矛盾を孕みながら物語が進展するこの手法は幻覚的リアリズムとも呼ばれ、ノーベル文学賞の受賞理由になっている[18]。 幼少期の飢餓体験が作品に大きく関わっており、2006年9月15日に福岡市立飯倉中央小学校で行われた講演では「幻想的な作品を描く源について、学校をやめ牛飼いになった自分に話し相手はおらず、幻想を続けるしかなかった。後に当時の多くの幻想がすべての小説の中に書き込まれ、大勢の方がこれを想像力が豊かだとして褒めてくれるようになった」と述べている[19]。『豊乳肥臀(ほうにゅうひでん)』は「露骨な性的描写が多い」として、中国では一時発売禁止となっていた。その他の作品に『酒国(しゅこく)』『白檀(びゃくだん)の刑』など。2006年には福岡アジア文化賞を受賞。2009年の『蛙鳴(あめい)』では一人っ子政策のタブーに挑み、2011年に同作品で中国文学の最高権威茅盾文学賞を受賞している。 ノーベル文学賞2012年10月11日、「幻覚的なリアリズムによって民話、歴史、現代を融合させた」としてノーベル文学賞を受賞。中国系の作家では2000年に高行健(1987年にフランスに亡命)が同賞を受賞しているが、中国籍の作家としては初[20][21][22][23]。 発言2012年10月12日の記者会見で、莫言はノーベル平和賞受賞者の反体制活動家である劉暁波に関して、「劉氏が健康な状態で可能な限り早期に釈放されることを願う」と述べて釈放を求めた[20][21]。いっぽう、莫言は中華人民共和国の検閲(中国のネット検閲、グレート・ファイアウォール)を容認するなど「体制側の作家」との批判を受けており、2009年にノーベル文学賞を受賞したヘルタ・ミュラーがノーベル文学賞の受賞を批判した[24][25]。 著作年は日本語訳の刊行年を記す。 小説
評論
台本
映像化作品
脚注
参考文献
外部リンク |