ガブリエル・ガルシア=マルケス
ガブリエル・ホセ・デ・ラ・コンコルディア・ガルシア・マルケス(Gabriel José de la Concordia García Márquez, 1928年3月6日 - 2014年4月17日)は、コロンビアのジャーナリスト、小説家。架空の都市マコンドを舞台にした作品を中心に、魔術的リアリズムの旗手として文学界に多大な影響を与える。1982年にノーベル文学賞受賞。 『百年の孤独』『コレラの時代の愛』は、2002年にノルウェイ・ブッククラブによって「世界傑作文学100」に、またル・モンドの「ル・モンド20世紀の100冊」[注 1]選ばれた。コロンビアで何かがあるたびにスポークスマンのような役割を果たすこともある(シャキーラについての言及など)。 アメリカ合衆国で活動する映画監督のロドリゴ・ガルシアは実の息子である。 略歴ガルシア・マルケスは1928年、コロンビアのカリブ海沿岸にある人口2000人ほどの寒村アラカタカに生まれる[1]。事情により両親と離別し、祖父母の元に預けられて幼年期は3人の叔母と退役軍人の祖父ニコラス・コルテス、迷信や言い伝え、噂好きの祖母ランキリーナ・イグアラン・コテスと過ごした。のちに代表作になる『百年の孤独』および一連の小説は、祖父母が語ってくれた戦争体験や近所の噂話、土地に伝わる神話や伝承に基づくところが大きい。特に『百年の孤独』は、ガルシア・マルケスが17歳のときに執筆を決意した作品であるため、祖父母の影響が色濃く残っている。特にガルシア・マルケスに影響を与えたのは祖父で、『落葉』の老大佐、『大佐に手紙は来ない』の退役大佐、『百年の孤独』のアウレリャーノ・ブエンディーア大佐などのモデルになったと言われている。1936年、女系家庭の中で唯一の男性であり、なんでも話せる男友達のようであった祖父がなくなる。1941年、両親の元に戻る。 高校時代からガルシア・マルケスは執筆活動を始めており、『エル・エスペクタドール』紙に短編を投稿し掲載されている[2]。1947年、コロンビア国立大学法学科に入学する。この頃、ラテンアメリカの作家を志す若者らは一般に法学科に入籍することが多く、ガルシア・マルケスと並び評されるマリオ・バルガス・リョサ、その他多くの作家が法学科に在籍していた。このコロンビア国立大学法学部時代、同級生だったカミロ・トーレス・レストレポと親友となり、カミロ・トーレスはガルシア=マルケスの二男に洗礼を授けるなど以後長く交友を続けた[3]。 1948年、ボゴタ暴動が起こり学校が閉鎖されたため、家族の住むカルタヘナのカルタヘナ大学に移る[4]が、生活難により中退する。『エル・ウニベルサル』紙の記者として働き、安アパートで貧乏暮らしをする。この頃、ジェイムズ・ジョイスやフランツ・カフカ、ウィリアム・フォークナー、ヴァージニア・ウルフ、ミゲル・デ・セルバンテスなどを耽読した。特にウィリアム・フォークナーは、のちにガルシア・マルケス作品の土台をなすうえで絶大な影響を与えた作家である。後に、ノーベル賞の受賞演説の冒頭で、「フォークナーが立ったのと同じ場所に立てたことはうれしい」と語ったほどである。またフランツ・カフカについては、『変身』を読んだことで大きな衝撃を受け、ガルシア・マルケス自身の作風を確立する上で決定的な体験の一つになると共に、文学そのものに関心を持つ大きなきっかけとなった(ガルシア・マルケスは後年ミラン・クンデラに「ひとが別様に書くことができると理解させてくれたのはカフカだった」と語っている)。ヴァージニア・ウルフについては、もし『ダロウェイ夫人』のある一節を読まなければ今とは違った作家になっていただろうとのコメントを残している。 1954年には『エル・エスペクタドール』紙の記者としてボゴタへ戻り、翌1955年に教皇崩御を伝えるためにローマへ飛ぶ。ローマにて映画評論を本国へ送るかたわら、「映画実験センター」の映画監督コースで学ぶ。この体験によって後年、自身が映画監督を務めることにもなる。しかし同じ1955年、自由党派『エル・エスペクタドール』紙は当時の独裁者ロハス・ピニーリャの弾圧によって廃刊する。これにより収入のなくなったガルシア・マルケスは、安アパート「オテル・ド・フランス」で極貧生活を送ることになる。ガルシア・マルケスはこの地で『大佐に手紙は来ない』を執筆する。 1957年、友人が編集長を務めるベネズエラの首都カラカスの雑誌『エリーテ』にヨーロッパから記事を送り生活する。1958年に結婚するためコロンビアにいったん戻り、カラカスに移り住む。この時に使われた旅費は1955年に出版された『落葉』によるものだった。『落葉』は、ガルシア・マルケスがヨーロッパ滞在中に彼の友人が祖国で『落葉』の原稿を見つけて、本人に無断で出版社に持ち込んだ作品であった。いわば偶然世に出た作品であった。 1959年キューバに渡りフィデル・カストロを知り、キューバ革命成立とともに国営通信社「プレンサ・ラティーナ」のボゴタ支局編集長となったが、間もなく編集部の内部抗争に嫌気がさし辞職する。しかしカストロとの親交は続き、2007年3月には病床のカストロを見舞った[5]。 1961年にメキシコに渡り映画製作に携わるかたわら、『大佐に手紙は来ない』を発表する。1962年に前年から書いていた『悪い時』とカラカス時代に書き溜めた短編集『ママ・グランデの葬儀』を発表している。 1967年は『百年の孤独』が発表された年である。1965年のある日、アカプルコ行きの車の中で17歳の頃から温めていた構想が一気にまとまったという。18ヶ月間タイプライターを叩きつづけて『百年の孤独』は完成した。『百年の孤独』は、スペイン語圏で「まるでソーセージ並によく売れた」と言われ、貧乏生活から足を洗うことになる。1960年代、フリオ・コルタサルやバルガス・リョサ、ガルシア・マルケスを中心としたラテンアメリカ文学の人気は「ブーム」と呼ばれ、日本でも例外ではなく、知識人なら読んでいなければ恥であると言われるくらいのものだった。特に『百年の孤独』は、大江健三郎や筒井康隆、池澤夏樹、寺山修司、中上健次など多くの作家に影響を与えた。 1973年チリ出身のノーベル文学賞受賞者で、ラテンアメリカの代表的詩人パブロ・ネルーダが亡くなった時、ガルシア・マルケスはアウグスト・ピノチェトの軍事政権が消滅するまでは新しい小説を書かないと宣言したが、ネルーダ未亡人の懇望によって1975年、政治風刺色の強い『族長の秋』を発表した。ただガルシア・マルケス自身は「小説家の任務は優れた小説を書くこと」として、政治の舞台には一度も上がっていない。 1981年、ガルシア・マルケス自身が最高傑作だという『予告された殺人の記録』を発表した。この作品は実際に起きた事件をモチーフにして書かれたものであるが、あまりにも描写が精緻であったために、事件の真相を知っているのでは、と当局に疑われたという逸話を持っている。 1982年10月21日、スウェーデン王立アカデミーにて、ラテンアメリカでは4番目となるノーベル文学賞を受賞した。受賞の理由としては、「現実的なものと幻想的なものを結び合わせて、一つの大陸の生と葛藤の実相を反映する、豊かな想像の世界」を創り出したことにあった。 1992年に肺に出来た腫瘍を除去した。1997年、メキシコに移住する。1999年、ロサンゼルスの病院でリンパ腫の治療を受けた。 2004年10月20日、10年ぶりに新作の小説『わが悲しき娼婦たちの思い出』を出版する。海賊版の出回りを防ぐために出版直前に最終章を変更している。 2012年6月12日、認知症を患っている可能性があると報じられた[6]。同年7月7日、ガルシア・マルケスの弟が「兄が電話で基本的なことを何度も尋ねてくる」などと語り、家族として初めてガルシア・マルケスが認知症を患い、記憶障害に陥っていることを公言したと報じられた[7]。 2014年3月下旬より肺感染症などで入院し[8]、4月上旬に退院し自宅療養していたが[9][10]、4月17日にメキシコ市内の自宅で死去。87歳没[11][12]。メキシコシティの自宅前にはファンが相次いで花を供え、4月21日には追悼式が行われた[13]。また、生地であるコロンビアでは3日間の服喪が宣言された[14]。 出生の謎上記のとおり、ガルシア・マルケスは、1928年にアラカタカで生まれたとされている。しかし、彼の親兄弟の証言や出生証明書を見ると、1927年生まれとする説が有力になっている。この食い違いは、若かりし頃のパスポートの誤記が原因とされているが、ガルシア・マルケス本人が1928年生まれであるとしているため、主な作品の作者略歴などは1928年を採用している。そのため、この項目でも1928年を一応の生年とした。 作品一覧小説
ノンフィクション・エッセイなど
全集
回想・評伝・作品論
評価と頌辞
脚注注釈
出典
関連項目
外部リンク |