花の47年組花の47年組[1][2](はなのよんじゅうななねんぐみ)とは、中央競馬において、1972年(昭和47年)にクラシック三冠の年(数え4歳)を迎えた1969年生まれの競走馬群を指す。 4年前の「43年組」(アサカオー・マーチス・タケシバオー・タニノハローモア)らと同様、多士済々の馬が揃い、中央競馬史における最強世代[3][4][5]一つに数えられた。 世代の流れこの世代のクラシックは、1971年末に発生した馬インフルエンザの影響によって1972年1月及び2月の関東地区の中央競馬の開催中止となったことなどにより日程の大幅変更を余儀なくされた[6]。例年5月末から6月初旬に行われる東京優駿(日本ダービー)は7月9日に行われ、「七夕ダービー[6][7][8]」の俗称が残っている。 当初この世代の筆頭格と目されていたのは1971年の阪神3歳ステークスを勝ち最優秀3歳牡馬に選出されたヒデハヤテであったが、同馬はクラシック初戦・皐月賞を前に出走したスプリングステークスで故障し、戦線から離脱する。例年開催ならば皐月賞は走れていた時期の離脱であり、馬インフルエンザの影響による最大の被害馬(蔵内哲爾)となった[4]。以後のクラシック戦線では、ロングエース、タイテエム、ランドプリンスの3頭が「三強」と呼ばれることになる[3]。皐月賞はランドプリンスが制したが、日本ダービーは「三強」が激しく競り合った末、同馬にクビ差をつけてロングエースが制した[3]。秋の三冠最終戦・菊花賞では、春に三強の後れを取っていたイシノヒカルが優勝。日本ダービー3着に続き、菊花賞も2着だったタイテエムには「無冠の帝王[9](または無冠の貴公子)」という異名がついて回るようになる。年末、八大競走で初めて他世代と戦うことになった有馬記念もイシノヒカルが優勝し、同馬が当年の年度代表馬となった。この競走を最後にロングエースは引退、イシノヒカルは屈腱炎を発症し、長期休養後1戦のみで引退、ランドプリンスは不調から脱せず翌年春に引退と、タイテエムを除いては4歳で燃え尽きたような結果となった。ロングエースの騎手を務めた武邦彦はのちに「ライバル達が、お互いに余りにも強力すぎた。それだけに、どのレースも気が抜けなかった。少しでも油断した馬が負けてしまう。春、東上してから秋の菊花賞まで。この間に、競走馬としての力をすべて燃焼しつくしてしまった」と語っている[1]。 5歳となった1973年春の天皇賞においてはタイテエムが優勝し、「無冠」の異名を返上する。同年春のグランプリ・宝塚記念では、クラシック三冠に出走していなかったハマノパレードがタイテエムを破って優勝するが、同馬は続く高松宮杯で骨折し、その後屠殺されるという最期が物議を醸した。またタイテエムも宝塚記念を最後に引退する。しかし夏には2度の骨折による20カ月に及ぶ休養から復帰したタニノチカラが最下級条件から連勝をはじめ、秋には天皇賞に出走。ここでは春から3つの重賞を制していたハクホオショウが1番人気に推されていたが、同馬はスタート直後に故障を発生して競走を中止し、2番人気のタニノチカラが優勝を果たした。同馬は年末の有馬記念でも有力馬に数えられたが、1年下のアイドルホース・ハイセイコーを意識しすぎたレース運びで不完全燃焼のまま4着と敗れ、その騎乗が激しく非難された[10]。しかし、この競走で優勝したのも「47年組」のストロングエイトであった。 6歳となった1974年には「48年組」であるハイセイコーとタケホープの戦いが競馬界を賑わせ、両馬はともに引退レースである年末の有馬記念で雌雄を決しようとするが、タニノチカラが両馬に5馬身差をつけての圧勝に終わる[11]。7歳となった1975年には1戦を消化したストロングエイトが引退、また有馬記念連覇を目指して現役続行したタニノチカラも故障で春に引退し、47年組の八大競走優勝馬はすべて姿を消す。1975年の春のグランプリ・宝塚記念ではナオキが勝利。同馬は八大競走こそ勝てなかったが重賞通算5勝、レコード勝利4回という成績で、中距離の名馬として高評価を得た。また、障害競走では「47年組」のグランドマーチスが圧倒的な強さを見せて最高競走・中山大障害4連覇という実績を挙げ、1985年には障害馬として唯一の殿堂入りを果たした。 他世代との比較同じように同世代を一括りにした言葉に、トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスの頭文字をとった「TTG(世代)」(1976年、昭和51年のクラシック世代)があるが、彼らの現役中に、47年組と比較する見方もあった[12]。 主な競走馬世代の強さを論じた文脈で名前が出た資料がある競走馬のみ列記する。その他の競走馬についてはCategory:1969年生 (競走馬)を参照のこと。 主な勝利競走のうち、太字は旧八大競走。
出典
参考文献
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