ツキサムホマレ
ツキサムホマレ(1969年4月16日[1] - 1983年[2])は、日本中央競馬会に所属していた競走馬・種牡馬。「花の47年組」の一頭であり、47年組の中で唯一海外にも挑戦した。 経歴戦績1971年7月の函館でデビューし、福永洋一を鞍上に据えた4戦目に初勝利を挙げたが、初重賞となった北海道3歳Sでは殿負けを喫する。11月の尾花賞(100万下)では17頭中17番人気で7着と健闘したが、最終戦の寒菊賞(100万下)は16着と大敗。このレースを勝ったのは後に年度代表馬にも輝くイシノヒカルで、5着は中央競馬重賞最多出走記録[4]を保持するイナボレスであった。 1972年は2月に夏の札幌以来となるダート戦で始動し、6月にはダービートライアルのNHK杯に出走して12着。その後は条件戦を走りまくり、1着2回・2着3回・3着2回と善戦。7月の200万下では2着を5馬身ちぎるなど安定したレースぶりを見せていたが、暮れの師走特別(700万下)では久々の不良馬場も響いて11着に大敗。 1973年は1月に始動してバレンタインS(700万下)を勝利した後、中京記念5着、ダイヤモンドS・京王杯SH4着と重賞でも通用するところをアピール。アルゼンチンJCCでは7着と掲示板を外し、夏は3歳時以来となる北海道シリーズに参戦。7月のSTV杯(500万下)では2着に5馬身差の勝利するなど活躍し、秋には東京に戻り、目黒記念(秋)ではタニノチカラ・メジロムサシ・ベルワイド・ストロングエイトら強豪を相手に5着と善戦。 1974年は700万下の道新杯とアカシヤSを勝ち、函館記念で重賞初制覇を飾る。 1975年は関西に初遠征。山陽特別(1000万下)2着を始動戦とし、初の大レースとなった天皇賞(春)では7着であった。札幌記念[5]では、後続を3馬身ちぎり捨てるレコード勝ちで重賞2勝目を飾る。函館記念ではトップハンデ60kgを背負ったが、重馬場に足を取られながらも、6kg差の軽ハンデで4歳牝馬のウラカワチェリーを退けて2連覇を達成。同一年に函館記念と札幌記念を優勝したのはツキサムホマレただ一頭だけであったが、38年後の2013年にトウケイヘイローが達成している。京都大賞典では2番人気に推されるも5着に終わる。 11月にはアメリカの国際招待競走・ワシントンDCインターナショナルの招待馬に選出され、ローレル競馬場でレースに臨んだ。1974年の英ダービー馬・スノーナイト、キングジョージ6世&クイーンエリザベスSを2連覇した牝馬のダリア( 帰国後は「あんな馬を代表馬にするから、日本はいつまでたっても勝てない」と批判が噴出することになったが、有馬記念に参戦し、13頭中12番人気でイシノアラシ・フジノパーシアの3着に追い込んだ。1976年引退。 引退後引退後は種牡馬となり、1977年に供用が開始された。目立った産駒を出せずに1983年死亡。ブルードメアサイアーとしては、1992年のセントライト記念3着となったスーパーソブリンがいた。 競走成績
血統表
参考文献
脚注
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