ダービーステークス(Derby Stakes)は、イギリスのエプソム競馬場(芝、1マイル4ハロン6ヤード、約2420メートル)で行われる競馬の競走である。
他国のダービーと区別するために、欧米では会場の競馬場にちなみ、特にエプソムダービー(Epsom Derby)という呼称も多く見られる。日本のメディア、特にテレビなどではイギリスダービー、英ダービーと呼ばれることもある。
1776年にイギリス最古のクラシック競走・セントレジャーステークスの盛大さを見たダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーとイギリスジョッキークラブ会長のチャールズ・バンベリー準男爵、そしてスタンリーの義叔父であるジョン・バーゴイン将軍の3人によって、1779年に創設されていたオークスステークスの牡馬版として創設された。
概要
この競馬競走名の由来については、1780年に創始者のダービー伯爵とバンベリー準男爵の間でいずれの名を冠するかをコイントスによって決定したとの逸話がある[2]。ダービー伯爵は創始者のバンベリー準男爵を記念して付けたかったがバンベリー準男爵は片田舎のレースに自分の名を冠されることをよしとせず、双方譲り合ったために最後はくじで決めることになったという[注 1]。
出走条件は3歳限定で、繁殖馬の選定のために行われるので騸馬の出走はできない(かつては出走できた時期があったが、優勝したことはない)。1歳時に出走登録を済ませていない馬は、追加登録料を支払わないと出走できない。ダービートライアルステークスなど本競走の試走的な位置付けの競走も存在するが、日本の中央競馬のトライアル競走のようなそれらの競走での上位入線による優先出走権はない。
距離は創設から3年間は1マイルの直線コースで行われ2代目・3代目・現在のコースになると1マイル4ハロン(約2400メートル)に延長されたが1991年に計測された結果、10ヤード程度ほど長いことが判明した。尚、現在の伝統のあるダービーコースは1872年から施行される様になった4代目のコースにあたる。1969年から1994年までは6月の第1水曜日に開催され、以降は6月の第1土曜日に開催されている。
なおウィンストン・チャーチル(第61・63代イギリス首相)が「ダービー馬のオーナーになることは一国の宰相になることより難しい」と述べたというエピソードがあるが、これは後世の創作であることが確認されている。しかし、それは巷間では今なお広く信じられており、ダービーに勝つことの難しさとその名誉を物語っている。なおイギリスでは第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズが実際に首相在任期間中に2頭のダービー馬のオーナーになったことがあるが、そのことを自慢するスピーチを行ったところ首相の地位と競馬の一競走の優勝馬の所有者の地位を同列に扱ったことを不見識と非難された[3]。
現在、世界各国で本競走を模範としてダービーの名を冠した競走が開催されている。詳しくはダービー (競馬)を参照。
歴史
- 1780年 創設、優勝馬はバンベリー卿の所有馬・ダイオメド(Diomed)で1065ポンド15シリングの賞金を獲得
- 1787年 サーピーターティーズル(Sir Peter Teazle)がダービー卿の所有馬として初めて優勝
- 1797年 馬名未登録馬が優勝
- 1784年 施行距離を1マイルから1マイル4ハロンに延長(2代目ダービーコース)
- 1828年 キャドランド(Cadland)とザカーネル(The Colonel)が1着同着、後日に決勝レースを施行しキャドランドが勝利
- 1844年 ランニングレイン事件。1着入線のランニングレイン(Running Rein)が、実は別の4歳馬が替え玉として出走していたことが発覚し失格、2着馬のオーランド(Orlando)が繰上げ優勝。このほかこの競走ではもう1件出走馬の替え玉があったこと、1番人気・2番人気が2頭とも八百長により故意に敗れていたことが露見した[4]。
- 1846年 競走タイムの計測を施行
- 1848年 施行コースを変更する(3代目ダービーコース)
- 1872年 施行距離を1マイル4ハロン29ヤードに延長(現在のコース)
- 1884年 ハーヴェスター(Harvester)とセントガティエン(St Gatien)がダービー史上初の同着優勝
- 1901年 競走タイムの計測を1秒表示から1/5秒表示に変更
- 1909年 イギリス国王・エドワード7世の所有馬・ミノル(Minoru)が優勝
- 1913年
- 「確定(all right)」サインが出た後に異議が申し立てられ、審議の結果、1番人気で1位で入線した馬が失格となり、単勝101倍の馬が繰り上がり優勝となった[注 2]。既に当初の発表に基づく優勝の馬券の払い戻しを始めていたブックメーカーもいた。これ以降、イギリスの競馬界は「確定」の用語を使わなくなった[5][6][7]。
- 競走中、婦人参政権活動家の女性エミリー・デイヴィソン[注 3]が最終コーナー付近に侵入し、ちょうど走って来たイギリス国王・ジョージ5世の所有馬・アンマー(Anmer)の手綱を掴もうとして衝突し転倒。騎手のハーバート・ジョーンズは落馬して肋骨骨折の重傷、アンマーは空馬のままゴールに入線した。地面に叩きつけられたデイヴィソンは意識不明で病院に運ばれ、4日後に頭蓋骨骨折で死亡した[5][8][注 4]。
- 3位入線のデイコメットが審判に見逃され着外となった[要出典]。
- 上記により、4位ルヴォア、5位グレートスポーツもそれぞれ2着、3着とされた[要出典]。
- 1915年 - 1918年 第一次世界大戦によりニューマーケット競馬場でニューダービー(New Derby Stakes)の名称で施行距離1マイル4ハロンにて代替開催
- 1921年 施行距離を1マイル4ハロンに短縮
- 1927年 この年よりラジオ中継始まる。この時が世界初の競馬のラジオ中継となる
- 1934年 施行距離を1マイル4ハロン5ヤードに延長
- 1938年 施行距離を1マイル4ハロンに短縮
- 1940年 - 1945年 第二次世界大戦によりニューマーケット競馬場で代替開催
- 1961年 競走タイムの計測を1/5秒表示から1/10秒表示に変更
- 1964年 競走タイムの計測を1/10秒表示から1/100秒表示に変更
- 1991年 施行距離を実計測、1マイル4ハロン10ヤードと判明し表記を変更
- 2017年 コース計測方法の改正により再計測を行い、1マイル4ハロン6ヤードに変更[9]
- 2020年 新型コロナウイルス感染拡大の影響で7月に順延開催
- 2021年 イギリスのオンライン中古車販売プラットフォーム「Cazoo」がスポンサーとなる[10]。
- 2023年 動物愛護団体の関係者が馬場に進入。計画的な犯罪行為に関与したとして31人が逮捕される[11]。
歴代スポンサー
- 1984年 - 1994年 エバレディ(Ever Ready)[10]
- 1995年 - 2008年 ボーダフォン(Vodafone)[10]
- 2009年 - 2020年 インベステック(Investec)[12]
- 2021年・2022年 カズー(Cazoo)[10]
- 2023年 - ベットフレッド(Betfred)[13]
歴代優勝馬
記録
- 最多勝利騎手 - 9勝
- レスター・ピゴット(1954、1957、1960、1968、1970、1972、1976、1977、1983)
- 最多連覇騎手 - 3連覇
- Steve Donoghue(1921 - 23)
- 最多勝利調教師 - 10勝
- エイダン・オブライエン(2001、2002、2012、2013、2014、2017、2019、2020、2023、2024)
- 最多出走頭数 - 34頭(1862)[16]
- 最少出走頭数 - 4頭(1794)[16]
- 牝馬の勝利 - 6頭
各国の「ダービー」
脚注
注釈
- ^ 現在、バンベリー準男爵の名を冠したバンベリーカップenと言う競走もあり、ニューマーケット競馬場で行われている。
- ^ 4頭がもつれあってゴール、決勝審判は1番人気のクラガノール(Craganour)が1着、アタマ差の2着に単勝101倍の大穴アボイヤール(Aboyeur)、クビ差の3着に2000ギニー優勝馬のルーヴォイス(Louvois)と判定した。一度は確定(all right)を知らせる旗があがったが、主席裁決委員が異議を申し出て審議が行われた。審議の結果、ゴール直前にクラガノールがアボイヤールの妨害を行ったとして、判定が覆ってクラガノールは失格、アボイヤールが優勝と裁定された。一度確定サインが出たので、既にクラガノール優勝の馬券の払い戻しを始めていたブックメーカーもいた。これ以降、イギリスの競馬界は「確定」の用語を使わなくなった。なおこの主席裁決委員はクラガノールの生産者であった。当時の観客は、裁定とは逆に、ゴール前の混戦ではアボイヤールが加害馬でクラガノールが被害馬であると考えていたという。この年の2000ギニーでは、クラガノールとルーヴォイスが内外大きく離れてゴールに入り、決勝審判によってルーヴォイス1着と判定された。しかし実際には反対側にいたクラガノールのほうが1馬身前にいたのではないかとの疑いがある(当時はまだ写真判定導入前だった)。クラガノールの馬主は、前年に沈没して1500名あまりの死者を出したタイタニック号の社主の一族で、同社のブルース・イズメイ会長はタイタニック号に乗り合わせていたが自分は助かっていた。クラガノールの馬主はその実弟バウアー・イズメイであり、当時この一族はイギリス中から白眼視されていた。2000ギニーとダービーの主席裁決委員は同一人物であり、馬主であるバウアーはこの主席裁決委員の義理の妹と不倫をしており、主席裁決委員も個人的にバウアーを嫌悪していたという。また、この時の裁決委員は、規定上の定数3名に足りず、2名しかいなかったことがわかっている[5][6][7]。
- ^ エミリー・デイヴィソンは、オックスフォード大学を卒業したあと、婦人参政権の活動家となって示威行為を繰り返し、7年間に9回投獄されている。罪状のなかには、ロンドンの路上の電信柱への放火、議会への侵入などがある。監獄ではハンガーストライキを行って3回出獄している[5][6]。
- ^ エミリー・デイヴィソンが加害した馬が国王の所有馬であったために、当時、彼女は王室を狙って注目を集めようとしたのだろうとみなされた。しかし、もとから彼女と行動をともにしていた一部の活動家を除いて、当時の世間の多くはその行為を賞賛しなかった。エミリーは実際には先頭を走っていたアボイヤールに近づこうとしたがうまくいかず、最後尾から3頭目を進んできたアンマーに接触している。今では、彼女には馬の見分けはつかず、衝突した馬がたまたま王室の馬だったのだろうと考えられている。また、彼女は帰りの切符などを所持していたことから、自身の命を賭すつもりはなく、意図せず誤って馬に衝突したものと今では考えられている[5]。ただし彼女は遺書などを携えていなかったので、真意がどうであったかはわかっていない[6][5]。
- ^ アクトン氏(Mr.Acton)とは、当時のロスチャイルド家当主のライオネル・ド・ロスチャイルドが使っていた仮定名称である[15]。ただし、実際にはその息子のレオポルド・ド・ロスチャイルドが実務を担っていたと広く考えられている[15]。レオポルドは1904年にSt. Amantで自分自身の名義でダービーを勝った[15]。なお、ライオネルはこの競走の6日後の1879年6月3日に死去している。
出典
各回競走結果の出典
- 1780年から1889年までの優勝馬、優勝騎手、馬主の出典:Muir, J. B. (1890). Raciana, Or, Raiders' Colours of the Royal, Foreign, and Principal Patrons of the British Turf from 1762 to 1883 (英語). London: J. B. Muir. pp. 174–178.
- レーシング・ポストより(最終閲覧日:2017年8月16日)
- 1988, 1989, 1990, 1991, 1992, 1993, 1994, 1995, 1996, 1997
- 1998, 1999, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004, 2005, 2006, 2007
- 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016, 2017
- 2018, 2019, 2020, 2021, 2022, 2023, 2024
書誌情報
- 『ダービー その世界最高の競馬を語る』アラステア・バーネット、ティム・ネリガン著、千葉隆章・訳、(財)競馬国際交流協会刊、1998
- 『The Derby : A celebration of the world's most famous horse race』,Michael Wynn Jones,Croom Helm,London,1979
- 『英国競馬事典』,レイ・ヴァンプルー、ジョイス・ケイ共著,山本雅男・訳,財団法人競馬国際交流協会・刊,2008
- 『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』Roger Mortimer and Richard Onslow and Peter Willet,Macdonald and jane's,1978,ISBN 0354085360
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