第二次世界大戦の影響第二次世界大戦の影響(だいにじせかいたいせんのえいきょう)の項目では、第二次世界大戦の結果により各国・地域に起きた大きな変化を記述する。 ヨーロッパマーシャルプランへの不参加をソビエト連邦が表明して、更に参加を希望していたチェコスロバキアなどの東欧諸国に圧力をかけて不参加を強要させた。9月には東欧や仏伊の共産党によりコミンフォルムを結成し、西側に対抗する姿勢をとった。これによりヨーロッパの分裂が決定的になった。 ヤルタ体制の中で東欧諸国は否応なく、ウィンストン・チャーチルが名づけたところの「鉄のカーテン」の向こう側である共産主義体制に組み込まれることとなり、ドイツという共通の敵を失ったソビエトとアメリカ合衆国は、その同盟国を巻き込む形でその後1980年代の終わりまで半世紀近く冷戦という対立抗争を繰り広げた。また、フランスやイギリス、ソビエトなどの主要連合国はアメリカに倣い核兵器の開発・製造を急ぐこととなり、後に成立した中華人民共和国やインド、パキスタンなどがこれに続いた。 ヨーロッパ全域
ドイツドイツ軍(ドイツ国防軍、武装親衛隊などを含む)の無条件降伏を受け、連合国はドイツに中央政府が存在しないと宣言し(ベルリン宣言 (1945年))、米英仏ソ4国による占領統治が行われた(連合軍軍政期)。また旧首都ベルリンについても4か国の分割統治下となった。しかし占領政策を巡って米英仏の西側連合国とソ連の対立が激化し、1949年には西側連合国の占領地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立、ドイツは東西に分断されることとなった。この分断状態は1990年まで続くこととなり(ドイツ再統一)、ドイツの戦争状態が正式に終了したのは同年にドイツ最終規定条約が締結された時であった。
→「第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償」も参照
オーストリア
ギリシャ1942年から内戦状態になり(ギリシャ内戦)、終戦後はイギリスとソ連の秘密協定によって西側の勢力下に置かれようとしていた。その後はアメリカ合衆国の支援の下、軍事独裁政権が成立、国王が亡命、1974年にキプロスでのクーデターが失敗し、その余波で軍事政権が崩壊、国民投票によって君主制が廃止、共和制に移行した。冷戦期には北大西洋条約機構に加盟した。 イタリア
フィンランド1939年に発生したソビエト連邦からの侵略(冬戦争)においてカレリア地方などを喪失したフィンランドは、1941年6月からふたたびソ連と戦った(継続戦争)。フィンランドはドイツとは同盟関係にない「共同参戦国」と主張していたが、国内にドイツ軍を駐屯させるなど共闘関係が存在していた。しかしドイツ軍が敗勢となると、フィンランドは講和に傾くようになり、1944年9月19日にモスクワ休戦協定を締結してソ連と休戦、1947年のパリ条約で講和した。
イギリスイギリスは第二次世界大戦を通じて約11億ポンドの海外資産をすべて失い、戦争が始まったとき7億6千万ポンドであった対外債務は、終戦時には33億ポンドに膨れ上がった[1] こともあり、イギリス経済は疲弊した。追い討ちをかけるかのように、日本の敗戦から2日後の8月17日、アメリカ合衆国はレンドリース法を停止して対英援助を打ち切った。窮地に陥ったイギリス政府は戦後復興のため、1945年12月に英米金融協定に調印したが、これにより大英帝国内部の特恵関税制度が否定され、経済面から大英帝国の崩壊が始まった。イギリス経済の疲弊により植民地を維持することが困難になり、また各地の独立運動も相まって、大英帝国は崩壊した。ミャンマーなどを除く元植民地の多くは、その後もイギリス連邦の一員としてイギリスとの絆を保っている。
フランス
ソビエト
ロシア革命後に独立を果たしたエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国は独ソ不可侵条約に基づき、ソ連軍が一方的に進駐し、その圧力の下で、1940年にソビエト連邦に強制的に併合された。その後はドイツ軍の占領下に入るなどしたものの、大戦終了後に再びソビエト連邦に併合され、追放・処刑された三国の住民の代わりに、多くのロシア人が流入し居住することになる。 エストニア、ラトビアの国境も変更され、ソ連の一共和国になった。再度の独立は冷戦後の1991年まで待たねばならず、ロシア系住民の処遇問題、エストニア、ラトビアはロシアと国境問題を抱えることになった。 →詳細は「バルト諸国占領」を参照
ポーランド1939年にソ連に占領された東部地域は回復されず、そのままソ連領[注釈 6] に編入された。その代償として、ポーランド回廊をドイツから回復した上、オドラ川(オーデル川)およびニセ川(ナイセ川)以東の旧ドイツ領やダンツィヒ自由市(現在のグダニスク)を併合し、ポーランド領土は大きく西方へ移動した(回復領)。失った東部領は新たに得た西部領の2倍に及び、東部領から追われたポーランド人が旧ドイツ領から追放されたドイツ人のかわりに西部領に住み着く人口の大移動が起こった。 その後、この新たなドイツ=ポーランド国境(オーデル・ナイセ線)の承認が、戦後に成立した西ドイツ政府の大きな政治課題となった。 また、国連の総会のポーランドの代表権問題が生じ、当時はソ連が支持するルブリン政権とアメリカ・イギリスが支持する亡命政権の二重権力状態にあった。その後に亡命政権の閣僚の三分の一を入れ、連合政権を作る事で妥協が図られた。その後、ソ連の強い軍事的な影響力の元に共産主義系の勢力が政府の実権を握り、亡命政権系の政治家は逮捕されたり亡命に追いやられた。 チェコスロバキア
ハンガリーパリ条約によりウィーン裁定によるブラチスラヴァを含むスロバキア南部やルテニア、第二次ウィーン裁定による北トランシルヴァニア、ユーゴスラビア占領によるヴォイヴォディナ等の獲得は敗戦により無効とされ、サン=ジェルマン条約による領域へと復活した。 大戦中の臨時政府からハンガリー第二共和国が成立したものの、占領軍であるソ連軍の後押しにより1947年にはハンガリー社会主義労働者党の一党独裁によるハンガリー人民共和国が成立し、ソ連の衛星国となった。 ルーマニアパリ条約により大戦中にドイツやイタリアの圧力で割譲した北トランシルヴァニアは回復したものの、ベッサラビア・北ブコビナ(ソ連)、南ドブロジャ(ブルガリア)は回復できなかった。1947年に王政は倒され、共産政権ルーマニア人民共和国が成立した。 ユーゴスラビア
ポルトガル
スペイン→「第二次世界大戦下のスペイン」も参照
アルバニア
ルクセンブルク
スイス大戦中は、中立を維持していたスイスだが、スイスの中立にも負の側面があったことを否定することができない。1点目は、ホロコーストから逃れたユダヤ人の亡命問題と財産の返還の問題である。2点目は、ドイツによる略奪金塊問題である。
この他にも、スイス領の町をドイツ領の町と間違えられたためにスイスの一般市民がアメリカの爆撃機により誤爆されたことが挙げられる。この誤爆では、死者40人、負傷者多数を出したという。 バチカン大戦中はバチカンは中立を維持していた。しかし大戦勃発直前に教皇に登位したピウス12世はドイツのホロコーストを黙認したと非難されることがある。イスラエルはピウス12世はユダヤ人を保護したとして評価しているが、「教皇がナチス政権下のドイツを非難していればホロコーストの犠牲者は少なくなったはず」との声も根強い。さらにピウス12世は死後ヨハネ・パウロ2世によって列福されたことが、さらに波紋を呼んでいる。 また、大戦終結時に多くのナチス党員がドイツから逃亡するのに対して、バチカンが有形無形の援助を行ったとの証言がある。 スウェーデンスウェーデンは、ドイツのチェコスロバキア併合を目の当たりにした頃から危機意識を強め、スウェーデン社会民主労働党政権の元で大規模な軍備の増強を行っていた。すでにスウェーデンは、ナチスの台頭によって開戦は避けられぬものと考えていた。1939年にナチスは、スウェーデンとデンマーク、ノルウェーに対し不可侵条約を申し入れたがスウェーデンとノルウェーは拒否する[3]。1940年、ドイツが不可侵条約を破棄し北欧に宣戦布告(北欧侵攻)するとスウェーデンは他国への援助を一切拒否し、武装中立を貫いた。 しかし戦後、スウェーデンの中立は利己的なものとして非難されている。開戦期には、枢軸国寄り、後期は連合国寄りである。もっとも単なる中立ではなく、両者に対する和平交渉仲介も行った。
デンマークドイツによる侵攻を経験したデンマークは戦後、中立政策から、集団安全保障に安全保障の方針を切り替えることになった。その時にはスウェーデンの外相ウンデーンの提唱したスカンジナビア軍事同盟に共鳴したが、スウェーデンが設立の意思がないことが分かると、北大西洋条約機構に加盟した。しかし、これはデンマークの安全保障を補完するものであり、対米追随を意味するものではなかった。デンマークの安全保障はいわゆるノルディックバランスと呼ばれるものである。 ドイツ占領中アメリカの保護下にあったグリーンランドは返還された。またアイスランドは独立した。 ノルウェードイツの侵攻を受けたノルウェーは従来安全保障を英国に依存していたが、第2次世界大戦後はアメリカに依存するようになった。北大西洋条約機構にも加盟し、西側諸国の一員になった。しかし、ソ連を刺激しないように国内に米軍基地をおかず、さらに非核政策をとるなど他の北欧諸国同様、ノルディックバランスと呼ばれる中立政策を志向した。 ドイツによる占領中、ヒトラーが「ノルウェー人は純粋なアーリア人種である」と唱えたため、「レーベンスボルン政策」がとられ、多くのノルウェー人女性とドイツ軍人との間の混血児が生まれた。ノルウェー政府はそれに対し隔離政策など迫害政策をとった。後にノルウェー政府はこの政策を「過ちである」と謝罪賠償した。 トルコ1946年8月にソ連が黒海から地中海を通る要衝であるボスフォラス海峡とダーダネルス海峡の管理をトルコに要求したために、一時的にソ連との対立が激化した。しかしその後にはソ連が要求を取り下げたので米ソ対立は緩和していった[4]。 東アジア中華民国では、国内の対立を抗日という同一目標により抑えていた中国国民党と中国共産党の両勢力が、再び内戦状態(国共内戦)となり、アメリカが政府内の共産主義シンパの策動を受け中国国民党への支援を縮小したこともあり、ソビエトの支援を受けた中国共産党勢力が最終的に勝利した。その後中国共産党は1949年に北京を首都とした中華人民共和国を建国し、中国国民党は台湾島に逃れることとなる。 朝鮮半島では、領土分割され支配権を放棄し撤退した日本に替わり、38度線を境に南をアメリカやイギリスをはじめとする連合国が、北をソ連が統治することになり、その後それぞれ「大韓民国」と「朝鮮民主主義人民共和国」として独立を果たす。しかし、ソ連のスターリンから承認を受けた金日成率いる北朝鮮軍が1950年に突如、大韓民国に侵略を開始。ここに朝鮮戦争が勃発することになる。なお、開戦後70年以上経った現在も南北朝鮮の間の戦争は公式には終結しておらず、大韓民国側に立つ国連軍と北朝鮮との間での一時的な休戦状態が続いている。 日本
1946年には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された。また日本国内だけでなく日本以外のアジア各地でも裁判が行われ多くが処刑された。
日本は「アジアの列強植民地の解放」という名目で、当時欧米列強諸国の植民地であったマレー半島やシンガポール、中国大陸などアジアのほぼ全域に進出、欧米列強諸国の植民地政府を廃止し占領、軍政下においた。また、占領地のなかのいくつかの地域については、日本に友好的な指導者を後押して独立させた。 しかし戦争当初の目的として資源確保のためにこれらの地を占領した日本にとってはそれまでの宗主国の持っていたような資源・資産面など対植民地での優位な状態を保つことが出来ず、これらの地においては軍政の名において当初の目的以上に搾取することを余儀なくされ、各地に人的・資源的に過酷な状態を招いた。日本はこれらの国々に戦後賠償としての意味合いも含め、政府開発援助(ODA)を行うことになる。
連合国軍最高司令官総司令部のマッカーサー総司令官の指示、決裁の元、アメリカ人がその大勢を占める総司令部の民政局長であるコートニー・ホイットニーらの手によって新憲法の草案が作成された。それを基に日本政府案が作られ、帝国議会での審議を経て、1946年11月3日に「日本国憲法」として公布された。
満洲国
中華民国
東南アジア東南アジア地域では日本軍を排斥した欧米諸国が植民地支配の回復をはかったが、宗主国の国力の疲弊とそれに伴う植民地支配がもはや利益を齎さないという判断、日本軍占領下での民族意識・独立意識の鼓舞による独立運動の激化、日本軍統治のもとで創設された国軍の独立軍への転化や日本人による近代戦術の指導、本国における人道上の理由による植民地支配への批判の高まりなどの要因から、第二次世界大戦後に多くの東南アジアの植民地は独立を果たした。ジョージ・W・ブッシュ政権でアメリカ合衆国国務副長官だったリチャード・アーミテージは、「世界でどの国が優れているか聞いた調査によると、アジアの人々の82%が『日本』と回答しました。彼らは(第二次世界大戦の)日本軍による占領は独立への機会になったと考えています」と述べている[7]。 2008年に外務省がASEAN主要6か国(インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム)に対日世論調査(一カ国約300名、TNSシンガポール社に調査依頼)をしたところ、「第二次世界大戦中の日本について、現在あなたはどうお感じですか」という設問において、以下のような結果だった[8]。 タイ第二次世界大戦以前より独立国であったタイ王国は、日本軍との一悶着の末、枢軸側として参戦したが、その裏では在米タイ公使館のセーニー・プラーモートがピブン政権と絶縁し東南アジア向けの反日放送を行ったり、ピブン内閣の実力者プリーディー・パノムヨンらが在日大使館を中心に日本内外に広範なスパイ網を構築し、情報提供によって米軍の日本本土空襲を支援するなど、連合軍側への鞍替えに向けた活動も行っていた。これはいわゆる自由タイ運動として知られている[9]。自由タイはタイ国内ではピブーンによって半ば公認された活動となっていき、日本の敗戦の色が濃くなると、また日本と結んだ条約で内政が悪化するとピブーンは1943年首都を日本軍の影響が少なく、陸軍の部隊のあるペッチャブーンに移転する計画を秘密裏に画策、民族主義的な思想の持ち主であったルワン・ウィチットは1943年10月30日外相を解任され、代わりに自由タイのメンバーとして知られていたディレークが外相に任命された[10]。1945年8月16日、プリーディーが摂政の立場で「対英・対米への宣戦布告は無効であった」との宣言が出された[11]。こうしたタイの二重外交は戦後、アメリカの政策と相まって成功しアメリカはタイを敗戦国とすることを避けた。 一方で、イギリスはほとんど敗戦国として処理したといえる。イギリスは終戦時、速やかに平和条約を結ぶことは拒否[12]、さらに米を賠償させた上で翌年の1946年1月1日にようやく平和条約を結ぶことを許した[13]。また、タイ王国は戦時中に回復したフランス領インドシナの一部、イギリス領マレーおよびビルマの旧タイ領土を再びフランス、イギリスに取られた形となった。しかしながら、連合諸国による本格占領とこれに乗じた植民地化を免れ、続いて独立国としての立場を堅持することになった。 フランス領インドシナ日本から独立が与えられていたフランス領インドシナ(ベトナム)では、日本の降伏直後に、ベトナム独立同盟会(ベトミン)がインドシナ共産党の主導下で八月革命を引き起こし、ベトナム帝国からの権力争奪闘争を各地で展開した。その後、9月2日に、ホー・チ・ミンがハノイでベトナム民主共和国の建国を宣言した。 ところが、旧植民地の再支配を謀るフランスは独立を認めず、9月末にはサイゴンの支配権を奪取したことで、ベトミンと武力衝突した。その後、ベトミンはフランスとの交渉による解決を試み、1946年3月にはフランス連合内での独立が認められた。だが、フランスはベトナムが統一国家として独立することを拒否し、コーチシナ共和国の樹立などベトナムの分離工作を行なった。これにより、越仏双方が抱く意見の相違は解決されず、同年12月にハノイで越仏両軍が衝突したことで、第一次インドシナ戦争が勃発した。 オランダ領東インドオランダ領東インド (インドネシア)では、日本の軍政に協力していた独立派が日本の降伏直後にスカルノを大統領とするインドネシア共和国の独立を宣言し、再植民地化を目指すオランダとの独立戦争に突入した(インドネシア独立戦争)。 この戦争には、元日本軍将兵、約2,000名が義勇兵として独立軍に参加している。インドネシアの国営英雄墓地では、その戦争により戦死した約1,000名の日本軍将兵が埋葬され、6人の日本人が独立名誉勲章(ナラリア勲章)を受章した。ドイツの占領を受けて疲弊していたオランダにとって、この戦争は大きな重荷になり、また植民地に強硬に固執する姿勢は国際世論の支持を失った。結果、1949年12月のハーグ円卓会議により、オランダは正式にインドネシア独立を承認した(ハーグ協定)。 イギリス領マラヤイギリスはマレー半島に居住する各民族に平等の権利を与え、シンガポールを除く海峡植民地とイギリス領マラヤ諸州からなる「マラヤ連合案」を提示した。華僑とインド系住人はこれに賛成したが、マレー人には不評で、その結果、ダトー・オンを党首とする形で、統一マレー国民組織(UMNO)が結成された。 イギリスは、1946年に発足したマラヤ連合との間で1947年にマレー人の特権を認める連邦協定を結び、1948年にマラヤ連邦が発足した。しかし華僑はこれに不満で、同年主として華僑からなるマラヤ共産党の武装蜂起が始まった。だが、マラヤ共産党の弾圧、その後各民族系政党が集まった(UMNO、マレーシア・インド人会議 (MIC)、マレーシア華人協会(MCA))アライアンスの結成と独立の準備は着々と進んでいった。1955年7月の総選挙で圧倒的な勝利を収め(52議席中51議席をアライアンスが占めた)、1957年8月31日にマラヤ連邦はマレーシアとして完全独立を果たした(詳細は、統一マレー国民組織を参照)。 一方、シンガポールは戦後イギリスの直轄植民地となり、その後は自治国となり完全独立をめざすこととなった。サラワクと北ボルネオ(現在のサバ州)も戦後イギリスの直轄植民地となり、段階的に自治の供与が始まった。多大な石油資源を持つブルネイは保護領のままで、その独立は1980年代まで持ち越されることになった。 アメリカ領フィリピン戦前、独立に向けての準備が進められていたが、日本の占領によって日本の傀儡政権が誕生する。終戦後に再びアメリカの統治下に戻され、その後1946年7月4日にマニュエル・ロハスを初代大統領にフィリピン共和国として独立を果たした。しかしアメリカ軍基地が国内に残され、多くのアメリカ資本が居座るなどアメリカの影響は大きい。 南アジアイギリス領インドイギリスは戦後もしばらくの間はインドを統治し続けたが、大戦によりイギリスの国力は疲弊し、大英帝国を維持することが出来なくなった[14]。 また、マハトマ・ガンディーやジャワハルラール・ネルーらインド国民会議派が指導する独立運動の激化並びにヒンズー教徒とイスラム教徒との間の宗教対立にイギリス政府は耐え切れなくなったことも相まって、アトリーは1947年2月20日、インドから1948年6月までに撤退することを決断し、ルイス・マウントバッテンを最後のインド総督として派遣した[15]。 マウントバッテンはネルー達に、ヒンズー教徒が多いインドとイスラム教徒が多い東西パキスタンに分割独立する案を受諾させ、また藩王国が印パに所属する過程が円滑に進むように、イギリス連邦に加盟することまでも受諾させる事に成功した[16]。そして、アトリーが当初宣言した予定より1年早い1947年8月15日、イギリス領インドは、ヒンズー教徒が多いインドと、イスラム教徒が多い、パキスタンに分割独立した(東パキスタンを構成するバングラデシュは1971年、パキスタンより独立した)。 しかしこの様なイギリスの都合に合わせ性急に行われた分割独立が、その後のインドとパキスタン両国の間における対立を引き起こし、その後も両国は対立を続けることになる。 オーストラリア・ニュージーランドイギリスの植民地である両国は安全保障をシンガポールを拠点とするイギリス軍に依存していたが、マレー作戦およびシンガポール陥落以後に、オーストラリアが日本軍にダーウィン空爆やシドニー湾攻撃などの被害に遭ったことを受け、安全保障のパートナーを宗主国の英国からアメリカに変更。ANZUSが成立する。 中東・北アフリカイスラエルオスマン帝国領をイギリスとフランスで分割したサイクス・ピコ協定によってパレスチナはイギリスの委任統治領となった。 1929年に始まった第5アリヤ(パレスチナへのユダヤ人の移住)は、雨垂れ式であったが、ヒトラーが権力の座についたことで、1933年から36年の4年間で、164,267人のユダヤ人が合法的に移住した[17]。その結果、パレスチナにおけるユダヤ人人口は、40万人に達した。そのことが、土着していたアラブ人との対立を招く結果となった。 ホロコーストとアトリー政権の親ユダヤ政策が、パレスチナの混迷をさらに招く形となった。1945年8月、トルーマンは、アトリーに書簡を送り、ホロコーストで生き残ったユダヤ人10万人のパレスチナ移住許可を求めた。 イギリスは、フランスとは異なり[注釈 11]、パレスチナの委任統治を継続したが、パレスチナの治安情勢の悪化とエクソダス号事件によって、委任統治を放棄することを検討しだした。 1948年5月16日、イスラエルは、独立を宣言。同時に、第一次中東戦争が勃発した。イスラエルは、国連決議で割り当てられた領域より広い領域の確保に成功するとともに、この戦争がパレスチナ難民問題を生み出す契機となった。 サウジアラビアイギリスの後援で造られたヒジャーズ王国を滅ぼして、アラビア半島を統一した国家であり、この国の石油資源は、1933年に設立された石油会社を介してアメリカの資本の支配下にあった。 ヨルダン1950年まではトランスヨルダンという国名であって、1946年に独立したものの、外交・軍事の実権はイギリスにあり、イスラエルと同時期にイギリス・フランスの委任統治領として成立した国家であったが、1950年に占領していたヨルダン川西岸を自国領にすると宣言し、その後国名をヨルダンと変えた。 イラクイラク王国はイギリスの委任統治領から1932年に独立したものの、国内でのイギリス軍の移動の自由が認められイギリスによる石油資源の支配が行われているなど外交・軍事の実権はイギリスにあった。これに対しアラブ民族主義者はイギリスからの独立を企てドイツに接近した。国内は乱れ、1941年3月末にはついにアラブ民族主義者の軍幹部が決起し親英派の国王側近が追い出される事態となった(1941年イラク政変)。 しかしイラクでの利権喪失とイラクの石油が枢軸国の手に落ちることを恐れたイギリスは軍を侵攻させ、1か月余りの後に再びイラクを占領した(イギリス・イラク戦争)。以後、第二次大戦後までイラクはイギリス軍の占領下に置かれ、ヴィシー政権支配下のシリアへの侵攻と、イラク同様にドイツ側に落ちる恐れのあったイランへの侵攻はイラクから行われた。 第二次大戦後もイラクは英米の同盟国として振舞い、ソ連を封じ込めるバグダッド条約機構の一員となるものの、1958年にアラブ民族主義の青年将校によるクーデターが勃発し共和国が誕生し、王室は滅ぼされた。 イラン→詳細は「イラン進駐 (1941年)」を参照
1941年、ソビエトとイギリスは親独国家であったイラン帝国に侵攻し、北半分をソ連軍、南半分をイギリス軍が占領し、ソ連に対する軍事物資援助のルートとした。しかし終戦後、ソ連軍がなかなか撤退する気配を見せなかったので、イラン政府が1946年1月にソ連軍の撤退を求めて国際連合安全保障理事会に提訴した。その後翌年にソ連軍は撤退した。しかしこの結果、アゼルバイジャンの地方政権が半年後に崩壊してしまう契機となった[18]。 レバノン第一次世界大戦終了後、サイクス・ピコ協定により、シリアとレバノンはフランスの、ヨルダンとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。だが、第二次大戦中、本国フランスがナチス・ドイツに占領されたこともあり、独立の準備が進んでいたシリアやレバノンは、フランスからの独立を模索することとなる。 ビシャラ・アル・フーリーが中心となり、1943年にフランスからの独立を達成し、自由経済政策を推進し、レバノンは経済的な繁栄を誇った。しかし、1948年、ユダヤ人の手により、イスラエルが建国されると同時に勃発した第一次中東戦争により、アラブ側は敗退を余儀なくされ、10万人規模のパレスチナ難民がレバノンに流入した。このことが、レバノンの各宗派間のバランスの上に成り立っていた政治運営を困難にさせた面は否定できない。 また、各宗派間の対立が周辺諸国(シリア、イラン、イスラエル)の介入を招き寄せる結果となり、現在の混迷の原因もこの大戦に起因している。 エジプトエジプトもイスラエルと同様にイギリスの委任統治領にあり、1922年にイギリス側の一方的独立宣言と1936年イギリス・エジプト条約により形式的に独立に近づいていたが、スエズ運河一帯にはイギリス軍が駐留し、元来エジプト領だったスーダンの統治をめぐってイギリスに従属的立場に置かれていた。 しかし、1956年ガマール・アブドゥン=ナーセルはスエズ運河の国有化を宣言、英仏イスラエルの三カ国はナセルの行為に反発し、第二次中東戦争が勃発した。米ソ両大国の英仏イスラエルに対する反発により、エジプトはスエズ運河の国有化に成功しアラブ地域の盟主の地位を確立した。 南北アメリカその全てが連合国、もしくは中立国であったラテンアメリカ諸国は、ブラジルのみが連合国の一員としてヨーロッパ戦線に派兵を行ったが、その本土が直接戦争による被害を受けることはほとんどなかった[注釈 12]。 戦後においては、共産主義思想の浸透を懸念したアメリカが、ただ「反共産主義的である」という理由だけで中央アメリカのグアテマラやニカラグア、西インド諸島のキューバ、ハイチ、ドミニカ共和国、ブラジル、チリ、アルゼンチンなどの多くの軍事独裁政権に対し経済的、政治的な援助を行った(PBSUCCESS作戦、ピッグス湾事件、チリ・クーデター、コンドル作戦)。それだけではなく、そもそもこうした政権の成立の過程にもアメリカ合衆国による介入がある場合がほとんどだった。その結果、冷戦の終結によってアメリカがこれらの軍事独裁政権に対する援助を中止した1990年代初頭までの長きに渡って(1959年に起きたキューバ革命によって社会主義政権になったキューバを除いた)ほとんどのラテンアメリカ諸国の国民は、腐敗した軍事独裁政権下で不安定な政治と富の独占、そしてそれがもたらす貧困にあえぐこととなる。 アメリカ合衆国戦中、国家主導の軍事増産が経済回復をもたらし、景気刺激政策が定着していった。しかしミリタリー・ケインジアン・エコノミーというようにきわめて軍事色が強くなった。同じ時期に軍や官僚機構と癒着し、1950年代に「軍産複合体」と批判されるような構造を作り出すこととなった。
連合国軍のイタリア上陸時における、イタリア系マフィアの現地協力組織による連合軍に対する情報提供や後方支援の他、アメリカ国内の港湾地域における対スパイ活動と引き換えに、アメリカ当局が当時アメリカ国内に収監されていたイタリア系マフィアの指導者の多くを減刑、もしくは釈放したことにより、戦後それらの組織がアメリカ国内で大きな力を持つことになった。 参考文献
脚注注釈
出典
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