サン=ジェルマン条約
サン=ジェルマン条約またはサン=ジェルマン=アン=レー条約(サン=ジェルマンじょうやく、サン=ジェルマン=アン=レーじょうやくフランス語: Traité de Saint-Germain-en-Laye、Traité de Saint-Germain、英語: Treaty of Saint-Germain-en-Laye 、Treaty of Saint-Germain、イタリア語: Trattato di Saint-Germain-en-Laye、Trattato di Saint-Germaine、ドイツ語: Vertrag von Saint-Germain)は、第一次世界大戦の後の1919年9月10日に連合国側とオーストリア(第一共和国)の間で結ばれた条約の通称。 フランス語、英語、イタリア語で作成され、フランス語版を基本の正文とする。 正式名称
通称この通称は締結が行われたサン=ジェルマン=アン=レーのサン=ジェルマン=アン=レー城にちなむ名称であるので、正確にはサン=ジェルマン=アン=レー条約と呼ぶべきかもしれないが、一般にはやや省略して(日本語はもとより英語、フランス語などでも)サン=ジェルマン条約と呼ばれる。この地で締結された条約は他にもいくつか存在している(サン=ジェルマン=アン=レー条約 (曖昧さ回避) 参照)。 概要オーストリア=ハンガリー帝国は第一次世界大戦末期にはイタリア王国の攻勢と諸民族の反乱の中で内乱状態に陥り、1918年11月3日、イタリア王国との間でヴィラ・ジュスティ休戦協定を結び敗北した。オーストリア=ハンガリー帝国はその後解体したため、新たに成立したドイツ=オーストリア共和国とオーストリアから分かれたハンガリー王国は別々に講和することとなった。サン=ジェルマン=アン=レーでの講和会議は1919年5月に始まったが、オーストリア代表団の出席は認められず、文書での提案しか認められていなかった。 この条約は、1920年7月16日に発効した。ドイツ=オーストリア共和国はこの調印において「オーストリア共和国」の国名で調印し、国名から「ドイツ」は排除されることとなった。条約の文言でも、国際連盟理事会の承認がない限りオーストリアは独立を動かされることはないとされ、事実上ドイツとオーストリアの合邦(アンシュルス)が禁止された。 ヴェルサイユ条約と同様に第一編は国際連盟規約、第十三編は国際労働機関規約である。サン=ジェルマン条約発効後、国際連盟はオーストリアの復興事業にかかわり、戦勝国は東欧にさらなる投資を行い開発を競った。そして1924年ごろ、これらの地域に農業恐慌が起こった。オーストリア経済は縮小してゆき、世界恐慌で危機が顕在化した。 条約はオーストリア=ハンガリー帝国政府が存在しないことを確認し、新しいオーストリアは領有権を失った地域と、ブルガリアおよびトルコ国内、その他すべての海外における一切の権益を放棄するものと約した。この点、オーストリアはドナウ川の国際河川化を承認するとも規定した。 第一次世界大戦の賠償について、オーストリアが負担する賠償額は賠償委員会の裁定に委ねられた。これは後にヤング案で免除される。 戦時中、オーストリア国立銀行がオスマン債務管理局名義で政府紙幣第一回分の保証として寄託された正金は、条約施行後一月以内に指定官憲に引き渡すものとされた(第210条第1項)。 主な条約内容領土に関する規定
領土以外の海外権益に関する規定
戦争賠償に関する規定
軍備制限に関する規定
オーストリアの民族政策等に関する規定
締結国
前文では特に「アメリカ合衆国、イギリス帝国、フランス国、イタリア王国、日本国」を「主たる同盟及び連合国」として他の参加国より先に記述している。
調印したが、批准を行わなかった国脚注関連項目外部リンク |