秋田盛季
秋田 盛季(あきた もりすえ)は、陸奥国三春藩の第2代藩主。秋田家第4代当主。 略歴元和6年(1620年)、秋田俊季の長男として宍戸城で生まれた[1][2][3]。母は、常陸国土浦城城主・松平信吉の娘[1][2][3]。童名は久松[1][2][3]。のち、左近と号す[1][2][3]。元服して、先祖の名である盛季を名乗った[1]。 寛永18年(1641年)12月29日、従五位下安房守に叙任された[2][1][3]。 慶安元年(1648年)12月。父・俊季の看病のため、大坂へ赴く[3]。同2年(1649年)1月、父が大坂城で病没し、大坂城加番を引き継いだ[1]。同年5月14日[3]、遺領5万石を継ぎ、三春城城主となった[1][3]。弟・季久に、遺領のうち5000石を分知した[1][3]。 慶安3年(1650年)から同4年(1651年)、駿府城加番を務めた際には由井正雪の乱が起こった[4]。 家臣・秋田四郎兵衛や小野寺多左衛門を用い、藩制の整備と財政再建に努めた[4]。また、祖父・実季と書簡をやりとりした[4]。秋田氏ゆかりの古四王を勧請し、別当真照寺に多くの仏像や仏画を寄進した[4]。 延宝4年(1676年)1月13日、大坂城中で病死した[2][5]。57歳[2][5]。法名は陽雲院殿竜天蒼松[5][2]。高野山に葬られた[5]。 逸話病身で引っ込み思案の性格だったため、個人に関する逸話はほとんど伝わっていない。『秋之夜之夢噺』(個人蔵)に次のような逸話が収められている[6]。
系譜○出典:断りがない場合は『三春町史』に拠っている[7][8] 父母 兄弟姉妹 正室
子女 ○以下は出生順不詳
脚注
参考文献
外部リンク
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