加藤明利
加藤 明利(かとう あきとし)は、江戸時代前期の大名。陸奥三春藩主、のち陸奥二本松藩主。官位は従五位下・民部大輔。 略歴慶長4年(1599年)、加藤嘉明の三男として松山にて誕生。母は堀部氏。 元和2年(1616年)1月19日に従五位下・民部少輔に叙任[1]。始め父の会津移封に従い、寛永4年(1627年)3月14日に陸奥三春に3万石の所領を与えられ、民部大輔となる[2]。翌寛永5年(1628年)10月5日に同二本松に移封された。寛永8年(1631年)に父が死去すると、兄・明成に従うようになる。兄が家老を殺した事件に連座した直後、寛永18年(1641年)3月25日に病没したが、死因に不審な点があったことから幕府にその死を疑われ、死後にその所領は改易とされた。号は雲心夢月寶樹院。 長男・明勝は父に連座して謹慎となった後、3,000石を与えられたが、正保2年(1645年)に13歳で死去し、無嗣断絶となった[1]。三男・嘉遐に1,300石、四男・明重に1,500石が与えられ、旗本として家名は存続した。墓所は二本松市の顕法寺にある。 系譜脚注 |