真鶴町
真鶴町(まなづるまち)は、神奈川県の南西部に位置し、足柄下郡に属する町。町域の半分は、三方を海に囲まれる[1]。 真鶴半島とその周辺にあり、歴史的な経緯から真鶴町真鶴と、同町岩の2つの地区で構成されている[2]。古くから上質の石材とされる本小松石の産地である。町の名は、半島の形が飛びたつ直前のツルに似ていることから付けられた[3]。 地理箱根火山の南東に位置し、相模湾の西を画す小さな真鶴半島と、その北の海岸部・後背の山地からなり(岩 (真鶴町))、北西から南東に伸びた細長い形をしている[2]。北東の小田原市と南西の湯河原町に挟まれる。 真鶴半島は、切り立った海岸を持つ溶岩台地である。先端は真鶴岬で、岬の先の海上に三ツ石(三つ岩)を望む。県立真鶴半島自然公園に指定されている。町域は全般に起伏が多く、平地は少ない。緩い傾斜面を持つ半島の付け根に市街地があり、その北西に真鶴駅、東に岩漁港と海水浴場、南東に真鶴港がある。市街地の北の山には採石場が多い。北部海岸沿いの丘陵はミカンの栽培が盛んである。町の北西部は、箱根火山の外輪まで続く山地の一部である。 日本のリビエラ町域の大部分が山地帯で平坦地に乏しいが、箱根火山の山麓はミカン園として利用され、北に箱根、南に相模湾を望む斜面地からの眺望は、南フランス・イタリアの地中海沿岸に良く似ているといわれ、「日本のリビエラ」と呼ばれている[4]。 なお、隣接する小田原市の片浦地区は「東洋のリビエラ」とも呼ばれている[5]。 隣接している自治体人口1970年以降、人口は減少傾向にある。2017年には神奈川県内で初めての過疎地域に指定された[6]。
歴史沿革
平成の大合併における真鶴町→「湯河原市」も参照
真鶴町は湯河原町と、2005年1月を目処に合併を目指していたが、真鶴町で行われた合併の賛否を問う住民投票で僅差で反対が上回り、合併は中止になった。真鶴町民の十分な理解が得られなかった背景には、「新市名が湯河原市となる」「これまでなかった都市計画税が新たに徴収される」等の要因が挙げられる。 行政神奈川県の13町1村の首長で作る神奈川県町村長会に加盟する[9]。 「真鶴」の読み方について「真鶴」(自治体名)は、現在は「まなづる」と読むのが正しい。自治体名の読み方は、岩村と合併した際の昭和31年9月30日『官報』[注釈 1]で「まなづる」として告示されている。しかし、その後発行されている『全国市町村要覧』等の各種文献では「まなつる」と記載されている。 真鶴町ではこの経緯を調査したが、合併告示の処理の際に誤植があった、昭和37年に自治体名の読み方を「まなつる」に変更した、などいくつかはっきりしない情報があるのみで、確かな事実は判明しなかった。いずれにしても、地元で「まなつる」と澄んで読む人はいないとのことであり、2005年(平成17年)に、一般的な発音である「まなづる」に自治体名を変更し、総務省に届け出た[11][12]。 字名については、昭和31年11月9日神奈川県公報にて「まなつる」と告示され、今に至っている。これについても、湯河原町との合併協議[13]や自治体名変更の際に「まなづる」に統一することも検討されたが、湯河原町との合併が破談に終わったこと、上記の通り告示の経緯が不明であったことなどから、「まなつる」のままである[14]。よって、「真鶴町真鶴」は「まなづるまち まなつる」と読むのが、地名としては正確である。 東海道本線の真鶴駅、および真鶴道路(真鶴ブルーライン)の「真鶴」の読み方は「まなづる」である。 なお、真鶴駅については1920年代後半、全国的に駅名表記を発音どおりに改めたことがあり、短期間ながら「まなずる」としていた時期がある[15]。 まちづくり条例「真鶴町まちづくり条例」は国による1993年制定、翌年施行の条例である[20]。まちづくり計画として条例第10条「美の原則(8つの原則)」および「美の基準」、開発や建築を行うときのルール、議会の役割や住民参加などを定めている[21]。まちづくりを条例で規定した例として、全国的に先駆的な事例で、「美」を法令上規定することも異例であった[21]。「美の原則」のデザインの指針(デザインコード)は、かつて美しかったイギリスの歴史的建築物が次々と取り壊されていくのを心配したチャールズ3世(当時皇太子)の『英国の未来像 建築に関する考察』[22][23]の発想を参照している。この著書でいわれている「建築の10の原則」は、都市に住む人間にとって、国や時間を超えて共通の普遍性を持つものであるため、考え方のヒントとされている[27]。 なお、真鶴町は2005年、市町村で初めて景観法に基づく景観団体になり、2006年に景観計画を告示した[24]。 箱根山からの傾斜地であるという地形上の特徴とあいまって独特の眺めを作り出している。古くからその地形的条件でわずかな土地を居住地として、海・山・畑の仕事により風景が織り成されてきた。また、真鶴半島の先端は御林として真鶴町の象徴として精神的なシンボルともなっている。これらの景観を豊かで美しい景観形成を図るために定めている。 美の基準真鶴町では「美」を個人的な主観としないために、8つの原則(美の原則)を立てている。真鶴町を美しくすることによって生き生きと生活するために、原則の具体的な手がかりや、全体のつながり、基準の詳細が基準として定められている。この美の基準は強制されるものではなく、みんなで作るものであり、参加によって修正されたり蓄積されたりする意図がある。実験的に長期にわたり続けられることで、真鶴町を「美しく豊かにしていく」ものとして計画されている[21]。
美の原則真鶴町は自然環境、生活環境及び歴史的文化的環境を守り、かつ発展させるために、次に掲げる美の原則に配慮するものとして定めている。
経済産業水田がなく、北部海岸近くの丘陵にミカンの果樹園が広がる。2000年(平成12年)の販売農家数は44戸で、経済的にも就業構造から見ても農業は微々たるものである。かつては真鶴港・岩漁港からの漁業が盛んだった。真鶴を特徴づける産業は、中世までさかのぼる小松石の採掘である。 加えて観光業が振興されている。2015年の観光客数は113万人で例年同様に推移しており、日帰りの飲食による割合が高い[29]。なお、周辺の箱根町は1737万人、小田原市は453万人、湯河原町は310万人である[29]。 2015年の就業者数を産業別[30][要ページ番号]で見た内訳は次のとおり。 県の資料[注釈 3]によると、2015年(平成27年)の真鶴町の就業者数3467人は、最も割合が多かった宿泊業・飲食サービス業は第3位11.6%、同じく最も少なかった情報通信業は第53位1.7%。農林業は第15位1.9%。順位は神奈川県内の58市区町村に対してである[34]。
姉妹都市・提携都市国内地域教育
官公庁・公共施設
医療
金融機関・郵便局放送
交通
公園
店舗交通鉄道路線東海道本線の開通以前は、人車鉄道・軽便鉄道の豆相人車鉄道→熱海鉄道が1896年(明治29年)から1923年(大正12年)にかけて存在していた。 路線バスタクシー
その他
道路
名所・旧跡・観光スポット
景観
神社・仏閣公園
漁港・海水浴場・ボート戦争遺跡
祭事・催事
出身有名人ゆかりの有名人脚注注釈出典
参考文献本文の典拠、主な執筆者名順。
関連項目→「Category:真鶴町」も参照
関連資料本文の典拠ではない資料、出版順。
中川一政美術館
外部リンク
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