瀧谷不動明王寺
瀧谷不動明王寺(たきだにふどうみょうおうじ)は、大阪府富田林市彼方(おちかた)にある真言宗智山派の寺院。山号は瀧谷山。本尊は不動明王。正式な寺号は明王寺。宗教法人としての登録名は「瀧谷不動明王寺」[1]。通称は山号の瀧谷山にちなんで滝谷不動。日本三不動の一つ[2]で、「目の神様」「芽の出る不動様」などと呼ばれる。 歴史寺伝によれば、弘仁12年(821年)に空海が龍泉寺に参籠した時に、国家安泰、万民化益を願い、一刀三礼で不動明王・矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制多迦童子(せいたかどうじ)の像を刻み、それら3体の仏像を祀るために諸堂が造営されたのが当寺の起源であるという。造営当初は今より約1km南に離れた嶽山(だけやま)の中腹にあり、広壮優美な堂塔・伽藍が整えられていたという。 南北朝時代に楠木正成が嶽山に嶽山城を築くと、その守護仏として当寺の不動明王を崇敬している。 正平15年(1360年)に足利義詮が嶽山城・金胎寺城(こんたいじじょう)を攻めると、その際の兵火で諸堂が焼失した。伝承によれば、この時に不動明王・矜羯羅童子・制多迦童子は滝の下に移されて焼失を免れたという。その後、盲目の老僧が現れて瀧谷不動明王寺の不動明王の霊験を人々に説き、二間四面の小堂を建立して礼拝していたが、まもなく老僧は晴眼(せいがん:眼が見えること)になり、姿を消したという。この盲目の老僧は、空海の化身であるとも、また、空海が作った不動明王が霊験あらたかであることを教えたと伝えられている。この説話により、眼病平癒を願う参詣者が多い。 長禄4年(1460年)12月に畠山政長と畠山義就との間で嶽山城の戦いが勃発すると、当寺はその籠城戦に巻き込まれてしまい寛正4年(1463年)に焼失した。 慶長年間(1596年 - 1615年)に、現在地に移って再建された。 信仰毎日祈祷がつとめられており、本堂では厄除けや商売繁盛など様々な願いの成就を祈願する護摩祈祷を受けることができる。但し、月に一度の仏具磨きの日{毎月25日(日・祝日の場合は翌26日)}は日中の祈祷がないので注意が必要である。境内には、法楽殿(交通安全祈願所)があり、毎月28日と節分の日を除く毎日、自動車・バイクなどの車両と祈願者がともに法楽殿前で祈祷を受けることができる。 以前は毎月28日が本尊 不動明王の縁日に伴い、府道202号森屋狭山線の滝谷不動駅から本寺までの区間が車両通行止めとなり、露店が並ぶ歩行者天国となっていたが、自家用車の普及や参拝者減少を背景に2022年(令和4年)4月で廃止された。翌5月から瀧谷山駐車場で露店を出店している[3]。 本尊には眼病平癒の利益があるとされているので、授与品として眼病平癒のお守り(晴眼守)がある。 境内
文化財重要文化財
大阪府指定有形文化財
年中行事
前後の札所交通アクセス公共交通車
脚注
参考文献
外部リンク |
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