龍泉寺 (富田林市)
龍泉寺(りゅうせんじ)は、大阪府富田林市龍泉にある高野山真言宗の寺院。山号は牛頭山。本尊は薬師如来。 歴史寺伝によれば、かつてここ嶽山の中腹にある池(現・庭園)には悪龍が住んでいたという。そして、悪龍は付近の里人に害を与えていたという。そこで、推古天皇2年(594年)に蘇我馬子が勅命を受けてこの地に来、修法を行うと悪龍は天に逃げ去っていった。こうして馬子は龍泉寺を建立したとされている[1]。しばらく後、悪龍の報復により境内の池と麓の水脈が枯れてしまったと伝えられる。 そこで、弘仁14年(823年)1月8日に空海(弘法大師)がこの地を訪れて、祈祷によって雨水を得て境内の池には水が湛えられ、この時池の中に3つの小島ができたとされる。空海はこの島に小さな社を建て、聖天、弁才天、叱天を祀り、鎮守社(現・咸古神社)に牛頭天王を祀ったという。 天長5年(828年)に淳和天皇が藤原冬緒に命じて当寺は再建され、勅願寺として牛頭山龍泉寺医王院の寺号を賜った。また、東西両塔が建てられ、大小25の塔頭が立ち並ぶ大寺院となったという。 南北朝時代になると、楠木正成が嶽山の山頂に龍泉寺城(嶽山城)を築いた。このことにより、南北朝の争乱で当寺は巻き込まれ仁王門を除いて多くの宝物とともに堂塔伽藍は焼失した。その後再建されるが、長禄4年(1460年)12月から畠山義就が嶽山城に籠城し、畠山政長と嶽山城の戦いを始めたので、再び被害を受けた。『多聞院日記』によると永正4年(1507年)には畠山義英が籠城したことで「嶽山之麓毎日大焼」となっている。 安土桃山時代に入り灯明料として3石が認められると、ようやく復興が行われ始めた。 江戸時代、この近辺は伊勢国神戸藩石川氏の藩領となり白木陣屋が構えられていた。また、石川氏が常陸国下館藩に移ってから以後も、やはり石川氏の藩領であったことから歴代藩主の石川氏から寄進を度々受けている。しかし、かつてほどの規模は取り戻すことは出来なかった。 明治時代になると、神仏分離によって牛頭天王を祀る鎮守社が龍泉寺より独立し、式内社である咸古神社に比定され祭神も神八井耳命に改められている。 境内にいたる参道は狭いものの、脇には桜、ツツジ、モミジなどが数多く植えられ、季節ごとに行楽客の目を楽しませる。 境内
文化財重要文化財
国指定名勝
大阪府指定有形文化財前後の札所交通
脚注
外部リンク |
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