七宝瀧寺
七宝瀧寺(しっぽうりゅうじ)は、大阪府泉佐野市にある真言宗犬鳴派の大本山の寺院。山号は犬鳴山(いぬなきさん)。本尊は倶利伽羅大龍不動明王。 役小角が「五百弟子受記品」を埋納したという第八番経塚の所在地・燈明ヶ岳の北側の山中にある。この地域には泉州と紀州を結ぶ南北の交通路と、それと交わる修験の道のり(葛城二十八宿)があったが、中世の七宝瀧寺はその結び目の一つであったという研究成果もある[2]。 2019年(令和元年)5月20日に認定された日本遺産『旅引付と二枚の絵図が伝えるまち-中世日根荘の風景-』の構成文化財のひとつ。「犬鳴山の溪谷」は「大阪みどりの百選」に選ばれている。 歴史斉明天皇7年(661年)、役小角によって大峰山山上ヶ岳が開かれる6年前に開山したと伝わり、元山上と呼ばれている。古くは犬鳴山を含む和泉山系全体を「葛城」と呼び、その中でも犬鳴山は西の行場、東の行場を持つ葛城二十八宿修験道の根本道場である。 平安時代初期、大干ばつに見舞われた際に雨乞いを祈願して雨が降り、それを知った淳和天皇が「七宝瀧寺」と名付けたという。 宇多天皇の時代、寛平2年(890年)3月、紀伊国の猟師がこの山域で狩りをしていた際、突然連れていた犬が激しく鳴き出し、結果猟師が射ようとしていた鹿が逃げてしまった。怒った猟師は犬の首をはねたのだが、その首はそれでも飛び跳ね、今まさに猟師に襲いかかろうと狙っていた大蛇に噛み付いた。犬は、主人が大蛇に狙われていることを知って鳴いていたのであった。愛犬に救われたと気付いた猟師は、これを悔いて七宝瀧寺の僧となって愛犬を供養した。 このことを聞いた宇多天皇はいたく感動し、七宝瀧寺に『山号を「いぬなきさん」と改めよ』と勅号を賜った、と伝えられている(義犬伝説)。 南北朝時代の正平17年(1362年)、南朝方の橋本正高が志一上人(至一上人とも[3])を犬鳴山に招いて不動堂を建立して中興し、さらに塔頭14坊が創建された。当寺は室町時代には熊野信仰と葛城修験道の隆盛にしたがって20坊の坊舎を有するようになり、本堂の修復も行われて栄えた。しかし、戦国時代になると織田信長に寺領を没収され、天正13年(1585年)には豊臣秀吉の根来攻めによって本堂以外の堂舎が焼き払われ、一時は廃絶同然となった。だが、後に秀吉の寄進によって滝本坊が再建され、御供米として30石が寄進されている。 江戸時代には岸和田藩主岡部行隆より新田五反の寄進を受けるなどして、ほぼ今日見られるまでに復興した[4]。近世初頭の「口上覚」によると、毎年5月に高野山から葛城巡行する先達たちは、犬鳴山に7日間留まり柴焼護摩を修したといい、「葛城山中で七日間も逗留するのはここだけだ」と述べられており、いかにこの山の地位が高かったかをうかがわせるものとなっている。 明治時代になると廃仏毀釈で被害を受けた上に修験道が禁止され、当寺は著しく衰えたが、明治時代後期には再興した。 1950年(昭和25年)8月7日には真言宗犬鳴派を設立し、葛城修験道の根本道場として修験道総本部を設置した。 境内参道の両側に神社の瑞垣のような石柱が並んでおり「
行場境内を流れる犬鳴川の北側には表行場、南側には裏行場がある。修験道の行場であり、相当に危険な箇所がある。 犬鳴渓谷の滝犬鳴渓谷の滝[5]
文化財2019年(令和元年)5月20日、文化庁により、地域型ストーリーの日本遺産『旅引付と二枚の絵図が伝えるまち-中世日根荘の風景-』の構成文化財の1つに認定された[1][6]。 大阪府指定有形文化財
大阪府指定名勝
大阪市指定有形文化財
その他
前後の札所
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |
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