法印大五郎
法印 大五郎(ほういん だいごろう、天保11年1月3日 / グレゴリオ暦 1840年2月5日 - 1919年(大正8年)1月16日)は、日本の侠客である[1][2][3][4]。法印の大五郎(ほういんのだいごろう)とも[5]。山伏から清水次郎長配下に入ったとされ、「清水二十八人衆」に数えられる[5]。明治維新後に引退、郷里に帰り角田 甚左衛門(つのだ じんざえもん)と名乗る[2]。その後養子に入り、伊藤 甚左衛門(いとう じんざえもん)となり[2][4]、実業を営んだ[3]。 人物・来歴清水一家の前後天保11年正月3日、現行のグレゴリオ暦によれば1840年2月5日、甲斐国八代郡二之宮村(現在の山梨県笛吹市御坂町二之宮)の百姓・角田久作の次男として生まれる[2][4]。今川徳三は『壬申戸籍』(1872年編製、1968年閲覧禁止)に当たっており、この生年月日等の情報はその記載による[2]。 「法印」とは「法印大和尚位」の略であり、864年に法眼・法橋の上位として定められた僧位だが、中世以降は医師や絵師、儒学者・仏師・連歌師の称号、あるいは勝手に僧位を称したり、ついには山伏や祈祷師を指すようにすでに意味が変化していた[6][7]。今川によれば、法印大五郎は、大前田英五郎(1793年 - 1874年)、大前田一家の江戸屋虎五郎(1814年 - 1895年[8])、あるいは吉良の仁吉(1839年 - 1866年)同様に草相撲出身でもあるという[2]。法印は、人並み外れた巨漢であった[2]。法印は、寺子屋に学び、数え15歳の年である1854年(嘉永6年)には、甲府八日町(現在の甲府市中央2丁目)にあった魚市場の担ぎ人足になり、甲州街道に面した市場[9]から、中道往還を経て沼津港、あるいは遠く新潟港までの間を往復し、鮮魚や塩乾魚を運搬する業務に従事した[2]。 数え19歳、満18歳になる年である1858年(安政4年)には人足を辞めて、二之宮村の実家に戻り、家業の農業を手伝っていたが、間もなく八代郡竹居村(現在の笛吹市八代町竹居)の吃安こと竹居安五郎(1811年 - 1861年)の乾分になるのだが、女癖が悪く、竹居に坊主頭にされて放擲されたのだという[2]。この坊主頭が「法印」の由来となり、体裁を繕うために「法印姿」つまり山伏の姿をしただけであって、実際に山伏であったわけではない[2]。二代目広沢虎造の浪曲『清水次郎長伝 法印大五郎』に語られる「元は出羽羽黒の法印で平沢寛山、やくざになって甲州竹居安五郎の身内となり人呼んで法印の大五郎」と口上にあるように[10]、出羽国の羽黒山(現在の山形県鶴岡市の羽黒山)の山伏であったわけではなく、「平沢寛山」と名のったのかどうかは不明である。笹川臨風は「法印大五郎は、山伏から身を持ちくづした男。次郎長が越前に赴いた時、同地で乾分にした。山伏姿で賭博場に出入したといふ亂暴者、生地は越前とも、又、出羽ともいふ」と記しているが[1]、生地については前述の通りである[2][4]。佃實夫も「甲州生まれで山伏出身。越前の旅先から次郎長がつれてきた」と記す[3]。 法印が清水一家に加わった契機は、浪曲のように清水港に現れた[10]のではなく、越前国(現在の福井県)で次郎長の配下になっているとされている[1][3]。歴史作家・田口英爾の年譜によれば、次郎長が越前等を行脚したのは安政5年(1859年)であるといい、当時、法印は数え20歳、満19歳ということになる[11]。今川徳三は、浪曲のように清水に流れ着いたとしており、人足時代に出会った沼津の知り合いを頼ったものであるとする[2]。一方、浪曲では、安政2年4月の半ば(1855年5月末前後)に次郎長と対面しており、遠州周智郡領家村(現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家)の秋葉神社での「秋葉の火祭り」が同年10月23日(同年12月2日)に行われ、次郎長や増川仙右衛門(1836年 - 1892年)とともに同神社に向かうのは、同28日(同7日)とされている[10]。法印はまだ満15歳のころに当たるが、浪曲では、4歳年長の増川よりも年長の人物であるかのように描かれている[10]。史実では、その時期には、法印はまだ甲府で人足を務めている時期である[2]。
引退後明治維新後に郷里の二之宮村に帰り、角田 甚左衛門と名のり、明治2年1月11日(1869年2月21日)、八代郡北八代村(現在の笛吹市八代町北)の百姓・伊藤只兵衛の養子に入り、伊藤 甚左衛門となるとともに、同養女やいと結婚する[2][4]。法印は当時満29歳、やいは弘化元年11月(1844年12月)生まれ、当時は満24歳であった[2]。その後の法印は、生糸繭仲買の実業を営んだという[2][3]。人柄は実直、正直で信用が篤かった[2]。 1875年(明治8年)10月13日には郷里の二之宮村が錦村に編入された。翌1876年(明治9年)には長男・慶作が生まれ、その後、長女・次女が生まれた[2]。1878年(明治11年)12月19日、郡区町村編制法により東八代郡が発足、錦村も当時法印が暮らした北八代村も、同郡域に入る。法印も次郎長も存命中の1884年(明治17年)4月、最初の次郎長伝とされる『東海遊侠伝 一名次郎長物語』(与論社)を次郎長の養子になった天田五郎が「山本鉄眉」の名で上梓した[12]。同書の「荒神山の喧嘩」について書かれた「第十二回 笠砥高市両党争威 荒神激闘二魁殞命」には、法印が戦死者に数えられている[2][13]。当時の法印は、家の前に住んでいた若い未亡人に惚れられ、生活の面倒をみていたという[2]。未亡人と旅に出て菓子を売り歩いたこともあるとされる[2]。 1898年(明治31年)、孫の泰助が生まれたが、その父・慶作が亡くなり、孫は法印が育てた[2]。大正に入るころには、法印は中風を患い、片麻痺になったという[2]。それでも動けるようになると、二之宮の実家に遊びにも出かけたといい、法印の姿を目撃した人の話は、同地に残っている[2]。「伊藤甚左衛門」が当時の本名であるが、大五郎に由来する「大さん」という通称で生涯呼ばれ続けた[2]。 1919年(大正8年)1月16日、死去した[2][4]。満78歳没。藤田五郎によれば、法印は、山梨県東八代郡八代町北1641番(現在の同県笛吹市八代町北1641番)の西光寺の伊藤家墓所に眠る[4]。戒名は「甚誉称念居士」、墓は1921年(大正10年)8月に伊藤慶作の次男、泰助が建立[4]、泰助はのちに八代町助役を務めた[2]。北八代村が合併して八代村になったのは1941年(昭和16年)4月1日、錦村が合併して錦生村になったのは1942年(昭和17年)6月1日であった。現在はいずれも笛吹市内である。二之宮の実家は長く残されたらしく、今川徳三は『日本俠客100選』(1971年発行)の法印の項にその写真を掲載した[2]。 フィクションの人物像史実において「清水二十八人衆」であった時代の法印大五郎は、前述の通り、満19歳 - 満26歳の青年期に当たる[2][4]。しかしながら、フィクション、とくに映画で扱われる法印は、マキノ雅弘が監督した『次郎長三国志』(東宝、1952年 - 1954年)、『次郎長遊侠伝 秋葉の火祭り』(日活、1954年)、『次郎長三国志』(東映、1963年 - 1965年)で法印を演じた田中春男(1912年 - 1992年)の実年齢が満40歳 - 満53歳(公開日ベース、以下いずれも同様)の時期に当たり[14]、次郎長を演じた当時満32歳の小堀明男よりも年長であり、青年とは言いがたい、しかも関西弁話者の人物像を造形した。田中が法印を演じる以前、とくに戦前は、満28歳の瀬川路三郎[15]、満30歳の中村進五郎[16]、おなじく満30歳の田村邦男[17]、あるいは満46歳の嵐珏松郎[18]、満39歳の新妻四郎[19]、満37歳の光岡龍三郎[20]、戦後は満43歳の椿三四郎[21]が演じていた。 ポスト田中の時代には、満41歳の石田茂樹[22]、満47歳の南利明[23]、満35歳の山城新伍[24]、満26歳の岸部シロー[25]、満48歳の谷幹一[26]、満29歳の平田満[27]、満40歳の桂朝丸(二代目桂ざこば)[28]、満44歳の頭師孝雄[29]、満37歳の阿南健治[30]、満60歳の笹野高史[31]、満46歳の木下ほうか[32]がそれぞれ法印役を演じた。次郎長役より若年あるいは同世代の役者が配されたのは、山城新伍、岸部シロー、平田満、桂朝丸、頭師孝雄、阿南健治、木下ほうかだけであった。その多くは、名古屋弁の南利明らを除き、田中春男がつくりだした関西弁のキャラクターを踏襲した。 「酒飲みねえ、すし食いねえ、江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」で知られる二代目広沢虎造の浪曲『石松三十石船道中』の原型は、三代目伯山の創作である[33]。江戸っ子が石松に対し、清水一家で一番強いのは「大政、小政、大瀬半五郎、増川仙右衛門、法印大五郎、追分三五郎…」と挙げていくなかで、法印は5番目に登場する。16人挙げたところで、大瀬の次に石松を失念していたことを忘れていたことを思い出す、という筋である。このくだりのあった時期は、設定では「文久2年の3月半ば」、つまりグレゴリオ暦では1862年4月13日前後に当たり、法印は満22歳、次郎長一家に在籍した時期に一致はする[2][4]。 フィルモグラフィ「法印大五郎」が登場するおもな劇場用映画・テレビ映画の一覧である[34]。公開日の右側には、法印を演じた俳優名とともに、次郎長を演じた俳優も記した。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、デジタル・ミーム等での所蔵状況も記した[34][35]。
脚注
参考文献
関連項目 |
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