池子
池子(いけご)は、神奈川県逗子市の町名である。現行行政地名は池子と池子一丁目から池子四丁目。住居表示実施済み区域。面積は3.80km2[2]で、市の2割ほどの面積を占める。 地理逗子市北東部に位置する。地名は3つの大きな溜池[注釈 1](大池・摺鉢池・廻り倉池)が存在したことから。 鎌倉市十二所、横浜市金沢区六浦に面している。 区制を施行している。逗子市内で区制を施行しているのは池子と小坪の2区のみである[5]。1丁目から4丁目に区分されるが、それとは別に池子区として上町・中町・下町の区分も存在する。 地価住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、池子2-7-26の地点で15万1000円/m2、池子3-11-39の地点で12万2000円/m2となっている[6]。 歴史旧池子村についてもここで解説する。 池子の歴史は資料の不足等により、特に中世以前について謎につつまれていたが、1988年(昭和63年)から1994年(平成6年)にかけての池子遺跡群の発掘調査によって弥生時代から近世以降の複合遺跡が存在することが分かった。 6000年ほど前まで低地は浅瀬であった。2000年ほど前の弥生中期から人が定住したようで[7]、稲作を行っていた痕跡も残されていた。また池子は域内を古東海道が通るとされ、日本武尊の東征伝説が残されている。池子の本格的な開拓は古東海道をやってきた物部氏によって行われたと伝えられる[7]。池子開発の伝承として、「池子王将監の大蛇退治伝説」が存在する[8][9]。 池子遺跡群の出土品から奈良時代後期には南多摩付近と交流があったと考えられ、小規模な鍛冶が行われていた可能性も指摘されている[10]。 池子村東昌寺縁起『東勝寺略記之事』によれば、1220年(承久2年)に北条政子が源実朝の菩提を弔うため、池子阿弥陀ヶ谷[注釈 2]に阿弥陀如来像を安置させたとある[11]。1333年(元弘5年)、東勝寺(現・東昌寺)が建立された。『小田原衆所領役帳』によれば1559年(永禄2年)の時点では太平寺(鎌倉尼五山の筆頭寺院、泰平寺とも)の寺領であった[12]。1563年(永禄6年)に太平寺は廃寺になったとみられるため、池子村は北条氏直轄地となったと推測されている[12]。 後北条氏滅亡後は、1594年(文禄3年)時点では幕領であったが[12]、徳川家光の寄進により1638年(寛永15年)に池子村の300石が、1642年(寛永19年)には池子村全体の412石[注釈 3]が英勝寺の寺領となる[13]。水戸徳川家と関係の深い英勝寺の寺領となったことで一種の治外法権地と化し、「泥棒も逃げこんだら追手は入れなかった」という伝承が残されている[14]。また近世を通して名主を庄屋、奉公人を家来と呼ぶなど関東地方では珍しい風習を残した。 1788年(天明8年)6月13日、池子村において伝染病が流行した際、英勝寺住持戒光院より神輿と牛頭天王を拝領する[15]。これにより現在も池子神明社の例祭で行われる水干を着用し行列をなす「天王神輿の古式渡御」が始まる。
1868年(明治元年)池子村は水戸藩の管轄となる。1871年(明治4年)、廃藩置県にともない水戸県に属したのち[13]、同年11月、神奈川県に属する[16]。当時池子村の人口は400人ほどであった[7]。 1884年(明治17年)7月3日、郡区町村編制法により逗子域内の7つの村(池子村、小坪村、桜山村、逗子村、沼間村、久木村、山野根村)が連合し、逗子村外六ヶ村を形成[17]。戸長役場は延命寺に置かれた。 1888年(明治21年)4月25日公布の市制・町村制、1890年(明治23年)5月17日公布の府県制・郡制によって[18]、1889年(明治22年)4月1日、田越村が発足した。村役場は初め延命寺に置かれたが、1892年(明治25年)に現在の逗子市役所の場所に移転した。 池子
池子区
世帯数と人口2021年(令和3年)10月1日現在(逗子市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2023年2月時点)[35]。
事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[36]。
事業者数の変遷経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷経済センサスによる従業員数の推移。
交通施設公共教育
神社仏閣軍事
史跡
その他日本郵便脚注注釈出典
外部リンク
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