1898年(明治31年)5月15日、米西戦争の視察の命令を受けワシントンD.C.の日本公使館に着任、大使・星亨の紹介により陸軍長官アルジャーと面会して24日にワシントンを離れ、25日から6月1日までテネシー州チャタヌーガの陸軍キャンプで訓練を視察、8日の予定が遅れて13日にフロリダ州タンパ港から出港した。シャフター(William Rufus Shafter)少将指揮のアメリカ陸軍第五軍団(Fifth Army Corps)は22日にキューバのサンチャゴ・デ・クーバの東約16マイルのダイクイリに上陸を開始し、続いて24日には同じく8海里のシボネーに第1師団が上陸し、柴はこれに同行した。7月1日に米軍はエル・カネーとサン・ホアンへ攻撃を行い苦戦ながらも両地点を確保し、柴はこのうちサン・ホアンの攻防戦を観戦した。降伏の交渉が始まり、17日には入城式が執り行われ、この方面の主な戦闘は終結した。柴はサンチャゴ市内へ入りスペイン側からも攻防戦の情報を集め調査した。柴の乗った船は20日にサンチャゴを離れ、柴は続くプエルトリコ攻撃の観戦を希望したが、既に遠征軍は出撃しており、26日にタンパへ帰港した船で検疫のために足止めを受けて上陸は30日、8月1日にワシントンへ戻った[3]。
12月、参謀本部出仕。翌年1月、参謀本部部員を命ぜられ8月に帰国する。
清国駐在武官、義和団事件での奮戦
1899年(明治32年)10月の陸軍中佐進級を経て1900年(明治33年)3月、清国公使館附を命ぜられる。駐在武官として着任まもない5月、義和団の乱が起こる。暴徒が各国の大使館を取り囲み、日本公使館書記生の杉山彬やドイツ公使ケットレル(Clemens von Ketteler)が殺害される。柴は公使・西徳二郎の下で居留民保護にあたり、また他国軍と協力して60日に及ぶ篭城戦を戦い、その功を称えられる。当時、北京には日本の他に11カ国が公使館を持っており、うち日本を含む8カ国が多少の護衛兵を持っていたが、柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を駆使した情報網を築き上げていたことから、各国篭城部隊の実質的司令官であった。事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。英国の『タイムス』のジョージ・アーネスト・モリソンはその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。なお、柴自身はアメリカ軍人が最も勇敢だったと評している。