東海 散士(とうかい さんし、1853年1月11日(嘉永5年12月2日) - 1922年(大正11年)9月25日)は、明治から大正にかけての政治家・小説家、軍人。本名は柴 四朗(しば しろう)。上総国(千葉県)の出身。台湾軍司令官・東京衛戍総督の柴五郎は弟。
生涯
富津にあった会津陣屋(現富津八坂神社の所在地)に生まれる。
藩校日新館で学び、少年期に会津藩士として戊辰戦争に兄の柴謙介と共に従軍。のちに東京で謹慎生活を送り、赦免後も東京で勉学に励むが、学費の問題から国内を点々とする。1877年(明治10年)、別働隊として参戦した西南戦争において熊本鎮台司令長官・谷干城に見出され、27歳のとき岩崎家の援助を受けてアメリカに留学し、ペンシルベニア大学及びパシフィック・ビジネス・カレッジを卒業して、1885年(明治18年)に帰国。同年、持論である「国権伸長」論を基調とするナショナリズム小説『佳人之奇遇』初版を東海散士の名で発表した(以後1897年までに8編を刊行)。著書として『東洋之佳人』『埃及近世史』などがある。大阪毎日新聞の初代主筆でもあった[1]。
日清戦争後の1895年(明治38年)10月に漢城で発生した乙未事変(閔妃暗殺事件)において、事件に関与した容疑者の一人として広島監獄署に勾留・取調を受けたが、証拠不十分で翌年1月に予審免訴となった[2][3]。
政治家としては、1892年(明治25年)以降、福島県選出(進歩党・憲政本党)など衆議院議員として活躍し、10回当選。農商務次官・外務参政官などを歴任し、条約改正反対運動に尽力した。1900年(明治33年)5月、山川健次郎・今泉六郎らとともに「会津図書館共立会」を設立し、会津若松に図書館を建設する運動を展開した。実際に会津図書館が開館したのは1904年(明治37年)のことである。
政界引退後は、悠々自適の生活を送り、1922年(大正11年)に、熱海の別荘で死去(満69歳没)。
1887年にハンガリーのコッシュート・ラヨシュを訪問した[6]。
脚注
- ^ 松下芳男『日本軍事史説話』土屋書店、284頁
- ^ 『手作り会津史』「伊豆熱海の柴四朗」
- ^ 1896年1月23日付時事新報記事(『新聞集成明治編年史』第九卷、林泉社、1940年、361-362頁)
- ^ 南塚信吾『ハンガリーの歴史』河出書房新社、2012年、65頁
参考文献
関連項目