扇ガ谷
扇ガ谷(おうぎがやつ)は、神奈川県鎌倉市鎌倉地域にある町丁。現行行政地名は扇ガ谷一丁目から扇ガ谷四丁目。郵便番号は248-0011[3]。扇ヶ谷・扇ケ谷・扇が谷・扇谷とも書く。 かつては相模国(廃藩置県後は神奈川県)鎌倉郡に所属し、扇ヶ谷村と呼ばれていたが、明治22年(1889年)に鎌倉郡7番組9ヶ村が合併するに伴って東鎌倉村の大字となった。その後、周辺市町村との合併統合を経て鎌倉市の大字となり今に至る。 地誌扇ガ谷はJR横須賀線の鎌倉駅から北鎌倉駅間の線路沿いの山際一帯の地名である。東を雪ノ下、西を佐助、南を御成町・小町、北を山ノ内と接し、飯盛山、源氏山(初名は武庫山、このほか亀谷山とも呼ぶ)などの丘陵が周辺を囲み、中心部谷戸にある亀ヶ谷坂を経て北鎌倉方面とつながる。地域内を扇川と呼ばれる小さな小川が横須賀線に沿って流れる。地名の由来は、鎌倉十井の一つ「扇の井」[5](現在の扇ガ谷3丁目)に因んだもので、扇ヶ谷は上杉定正の旧邸で英勝寺の地で、亀ヶ谷(かめがやつ)の地内の一地名とある(新編相模国風土記、新編鎌倉志[6])。もともとこの地は亀谷と呼ばれ、鎌倉幕府の記録書である『吾妻鏡』には亀谷(亀ヶ谷)の地名のみ登場(初見は治承4年(1180年)10月7日)し扇ヶ谷は出てこない。亀ヶ谷は鶴ヶ岡に対する対語、もしくは谷戸の中心部にある亀ヶ谷坂(『亀がひっくり返るほど急な坂』の『亀返り坂』の転訛という説)に由来すると云われ、この地は源家父祖伝来の地であった。源頼朝は鎌倉に入るとまず父・義朝を偲んで義朝邸があった亀ヶ谷を訪れ、後にここに北条政子が亀谷山寿福寺を建立した。扇ヶ谷の地名は室町時代にこの地に住んだ上杉定正が『扇谷殿』と称されてから扇ガ谷の地名が一般的になり、亀ヶ谷の呼び名は廃れた。 扇ヶ谷自体で谷戸となっているが、扇ヶ谷を取り巻く山々は入り組んだ地形を持ち、地域全体には支谷が多い。泉ヶ谷、清水ヶ谷、清涼寺ヶ谷、藤ヶ谷、多宝寺ヶ谷など多数の谷戸の総称として亀ヶ谷や扇ヶ谷は呼ばれている。現在は横須賀線によって地域は東西に分断されている。 地価住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、扇ガ谷1-1-5の地点で45万7000円/m2となっている[7]。 世帯数と人口2023年(令和5年)9月1日現在(鎌倉市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2017年7月時点)[14][15]。
事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[16]。
事業者数の変遷経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷経済センサスによる従業員数の推移。
寺社・旧跡もともと現在の寿福寺のある付近は源頼義以降、源家が鎌倉に持った屋敷の跡であり、源義朝や源義平もこの地に住んだという。また、こうしたことから記録によれば扇ヶ谷には鎌倉幕府の要人たちが多く住んだ。このため地域内には寺社や旧跡が多い。
屋敷街室町時代に上杉定正の屋敷があり、定正は「扇ヶ谷殿」と呼ばれていた。近代になって、政財界人の別荘地として人気になり、三菱の創業者・岩崎家などの屋敷が建った[19]。2004年には、旺文社創業者の赤尾好夫が設立したセンチュリー文化財団の館長宅を建設するに当たり、無量寺跡と思われる遺跡の調査が行なわれた[20]。2012年に同財団が15億円の助成金と土地約2500坪を市に寄付し、隣接する赤尾家の別の土地約2000坪を市が購入する形で、世界遺産関連施設の建設計画が進められた[21][22][23]。政府が世界文化遺産登録への推薦を取り下げたために計画が変更され、2017年に鎌倉歴史文化交流館として開館した。 著名な住民
その他日本郵便脚注
参考文献
関連文献関連項目 |
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