山本徳郁
山本“KID”徳郁(やまもと“キッド”のりふみ、1977年3月15日 - 2018年9月18日[2][3])は、日本の男性総合格闘家。神奈川県川崎市出身。戸籍名:岡部 徳郁(旧姓:山本)[4]。学歴はトキワ松学園小学校出身、中学受験後、桐蔭学園高校中退〜アメリカ留学〜山梨学院大学法学部法学科卒業(法学学士)。血液型B型。KRAZY BEE主宰。HERO'S 2005ミドル級世界王者。 ニックネームは「神の子」または「KID」。 人物ミュンヘンオリンピックレスリング・グレコローマン日本代表だった山本郁榮を父親に持ち、姉・美憂、妹・聖子はレスリング世界選手権を制覇している。同じくレスリング選手・総合格闘家の山本アーセンは甥。 その他スポーツで著名な活躍をしている親族としてプロ野球選手のダルビッシュ有は義理の弟(聖子の夫)、祖父は水泳のオリンピック選手だったと自身のブログで写真付きで公開している。 好物は和食・朝鮮料理・タイ料理。また、トレーニングの集中期間中は食事のレパートリーは三品のみであり、その中の一つである豚キムチと米がお金も掛からなく一番良いと発言している[5]。 タトゥーマニアであり全身に多くのタトゥーを彫っている。生前ワードリーフ株式会社のインターネットニュース『THE PAGE』に寄せたインタビューでは「俺のタトゥーのひとつひとつに意味があるから」と語っている[6]。 動物好きで知られ、殺処分される予定であった犬を引き取り「カッシー」と名付け、家族の一員として迎えている。 親の影響から食に対するこだわりは強く、現役時代の食生活の中でヴィーガンを採用していた時期もある。結果的に、動物好きからベジタリアンになり、晩年はヴィーガンになっており、2018年4月28日に沖縄市で開催された「沖縄ヴィーガンフードフェス」にもゲスト出演[7] しているが、トーク中に「試合前は肉を口にする」と述べている。 また、主宰しているジム「KRAZY BEE」は、沖縄ヴィーガンフードフェスに協賛し、ジムのオリジナルグッズに会場で本人がサインを入れて販売。売上を動物保護活動を行っている3つの団体(Shie's Happy Tails、クックハウス、Life Investigation Agency(LIA))に、沖縄ヴィーガンフードフェス事務局を通して寄付している。 2004年、自身がプロデュースを手掛けるブランドHARDHITを立ち上げる。 2008年から大田区馬込に自身でスポーツジムYSA(ヤマモトスポーツアカデミー)、KRAZY BEEの経営を開始。 2012年5月24日、Twitterを開始したことをブログにて発表。山本"KID"徳郁 (@KID_KRAZYBEE) - X(旧Twitter) 2014年7月に品川区大井に、自身がプロデュースするカレー屋「Curry Shower」をオープン。 2017年7月に沖縄県糸満市に自身が主催するKRAZY BEE糸満を、11月に埼玉県越谷市にKRAZYBEE越谷を創設。 2018年5月29日、若手選手の登竜門となるオンライン視聴型アマチュア格闘技大会『KRAZY LEAGUE』を設立。6月30日に第1回大会が開催された[8]。 2018年9月18日、多臓器不全で死去、41歳没。 私生活モデルのMALIAと2003年に雑誌の撮影で知り合い[9]、2004年8月に結婚。2005年1月に第1子男児、2006年11月に第2子女児が誕生したが、2009年に離婚。子供はMALIAが引き取った[10]。 一般女性と再婚し、2014年11月に第3子女児[11]、2017年8月に第4子女児が誕生した[12]。 来歴レスリング幼い頃よりレスリング(フリースタイル)で活動。 高校時代は単身でアメリカにレスリング修行、アリゾナ州の王者に3度輝いた。 大学では日本に帰国、全日本学生レスリング選手権大会優勝(フリースタイル58kg級)など数多くの実績を残した。シドニーオリンピック出場を目指していたが、1999年の全日本レスリング選手権大会(同級)で惜しくも準優勝。 総合格闘技転向・修斗オリンピック出場への道が絶望的になったのと同時期に姉・美憂の夫(当時)であるエンセン井上に師事して総合格闘技に転向。姉から総合格闘技のビデオを見せられたのがきっかけになったという。2000年7月、愛知で行われたアマ修斗ワンマッチにて2RKO勝ちでアマデビュー。同年9月第7回全日本アマチュア修斗選手権大会ライト級(-63 kg)で優勝。翌2001年にプロデビューし修斗で世界ライト級ランク2位まで登り詰めた。 2002年9月16日、プロフェッショナル修斗公式戦で勝田哲夫と対戦。試合前に勝田がKIDに対して「彼はレスリングの実績があるけど、総合におけるレスリングってものを俺が教えてあげますよ」と挑発したことに対してKIDは不快感を露にしていた。試合ではKIDがパウンドの連打で勝田をKOしたが、レフェリーストップがかかったにもかかわらずレフェリーの制止を無視して舌を出して笑顔で勝田を殴り続けたため120日間のライセンス停止処分を受けた[13]。 2003年12月14日、修斗世界ライト級(-65 kg)チャンピオンシップで王者アレッシャンドリ・フランカ・ノゲイラに挑戦予定であったが、練習中に右手人差指を骨折し、全治2か月となり欠場した。 K-1・HERO'S2004年2月24日、K-1初参戦となった「K-1 WORLD MAX 2004 〜日本代表決定トーナメント〜」1回戦で村浜武洋と対戦。村浜を相手にK-1ルール初挑戦ながら圧倒的なスピードとパンチ力を発揮、ノーガードで村浜のパンチを避け、ダウンを奪った後も追撃する2RKO勝利。だが、試合前から負傷していた右手第二中指骨を骨折し、準決勝を棄権した。 その後トニー・バレント、安廣一哉、ジャダンバ・ナラントンガラグを総合ルール(安廣のみミックスルール)にて一本・KO勝ち。そしてナラントンガラグ戦後、リング上からマイクで魔裟斗に対戦を要求。魔裟斗もこれを受け、2004年12月31日のK-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!で対戦。1Rに魔裟斗からダウンを奪った直後、金的を貰いダウン。リプレイが流れた会場では悲鳴が上がるほどのダメージを受け、実況席からも続行は無理と言われる程であった。また、完全に視線が下にいっている魔裟斗のリプレイ映像を見て解説の船木誠勝が故意であることを匂わせる発言をした。インターバルの後に試合は再開されたものの、精彩を欠いたKIDは2Rにダウンを取り返され、判定負け。 2005年3月3日のHERO'S旗揚げ発表会見に出席し、HERO'S参戦が発表されるも、怪我のため、3月26日のHERO'S旗揚げ戦は欠場となった。 2005年5月4日、K-1 WORLD MAX 2005のスーパーファイトにてK-1ルールで出場。しかしマイク・ザンビディスと対戦し、右フックでキャリア初のKO負けを喫した。 2005年7月6日、HERO'S 2005のスーパーファイトでイアン・シャファーと対戦し、TKO勝ち。 2005年9月7日、HERO'S 2005ミドル級(-70 kg)世界最強王者決定トーナメント準々決勝でホイラー・グレイシーと対戦し、右フックで失神KO勝ち、準決勝では宇野薫をパンチで出血させ、ドクターストップでTKO勝ち。 2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!にてトーナメント決勝戦を須藤元気と対戦し、右フックのダウンからパウンドの連打で1RKO勝ちを収めトーナメント優勝を果たし、キャリア初のベルト戴冠となった。この試合の決着場面において「レフェリーストップが早かったのでは?」という指摘が須藤とファンから挙がったが、後日にTBSで放送された格闘王で、レフェリーストップ直後に立ち上がった須藤の脳が揺れて足元がふらついてコーナーまでよろめいている映像が放送され、事なきを得た。須藤も後に「ストップされた時は、(ダメージがあったため)あまり覚えていない」と語っている。 2006年2月17日、修斗代々木大会に出場した同門の菊地昭の試合後にドクターチェック中であった中山健児リングドクターに対し、暴言を吐いた上、足先で臀部を小突いた。事態を重く見た日本修斗協会は2月21日、山本に修斗全公式戦会場立入禁止、山本が代表を務めるKILLER BEE(現・KRAZY BEE)所属全選手および関係者へ修斗全公式戦出場停止処分を下した[14]。翌2月22日にKIDが中山リングドクターに謝罪し、和解したが3月6日付けでインターナショナル修斗コミッション(ISC)よりKIDへの無期限ライセンス不許可処分およびKILLER BEEへの厳重注意処分を受けた。10月12日にKIDがISCおよび日本修斗協会に謝罪し、10月13日付けで無期限ライセンス不許可処分が解除された[15]。 2006年5月3日、HERO'Sで宮田和幸と対戦し、開始4秒の左跳び膝蹴り一発で失神KO勝ち。この膝蹴りで宮田は下顎骨を骨折する重傷を負った。試合後のマイクでは「ヤバイ、かっこ良すぎる、俺」と自画自賛した。 レスリング復帰2006年7月23日、レスリングに復帰し、2008年の北京オリンピック出場を目指すことを宣言。プロ格闘家活動を一時休止する。 2006年12月、スポーツ用品ブランド「リーボック」とのパートナー契約を締結[16]。 2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!で総合格闘技のリングに一時復帰。アテネオリンピックレスリング・グレコローマン55kg級金メダリストのイストバン・マヨロシュと対戦し、首相撲からの膝蹴りでKO勝ち。 2007年1月28日、天皇杯平成18年度全日本レスリング選手権フリースタイル60kg級2回戦でアテネオリンピック銅メダルの井上謙二(自衛隊)の巻投げで右肘を脱臼、試合開始16秒でフォール負けを喫した。なお、大会前に同階級の有力選手からは「(山本に)1ポイントも与えるつもりはない」「7年もブランクがあっては通用しない」など、長期のプロ活動から復帰した山本に対しての発言があった。 2007年6月、北京オリンピック出場に望みをかけレスリング明治乳業杯全日本選抜選手権に出場を予定していたが、肘の脱臼が完治せず、練習も満足に出来ていないため出場を取りやめた。 2007年9月17日、総合格闘技復帰戦となったHERO'S 2007 ミドル級世界王者決定トーナメント決勝戦でビビアーノ・フェルナンデスと63kg契約で対戦。試合の1週間前に左手首の豆状骨を骨折しており、腕ひしぎ十字固めをかけられ回転して逃げるなど危ないシーンもあったが、スタンドでのローキックなどでダメージを与え、判定勝ち。 2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!でハニ・ヤヒーラと61kg契約で対戦。ヤヒーラのグラウンドには付き合わずスタンドでの攻防となり、最後は左フックでKO勝ち。ヤヒーラがダウンした後の頭部へのサッカーボールキックに対してイエローカードが提示された。 DREAM2008年7月21日、DREAM.5でジョセフ・ベナビデスと対戦予定であったが、練習中に右膝前十字靭帯を断裂し、欠場となった。同年8月1日に手術を受け、成功した。同時に前年に骨折していた左手首の手術も受けた。この怪我以降、急激にKIDの戦績が下降していった。 2009年4月5日、DREAM.8のテレビ放送の解説を務めた。 DREAM.7から開幕したDREAMフェザー級(-63 kg)グランプリでは実績を考慮されて1回戦をシードされた。 2009年5月26日、約1年5か月ぶりの復帰戦となったDREAM.9のフェザー級(-63 kg)グランプリ2回戦でジョー・ウォーレンと対戦。ムエタイ・スタイルへと変貌を遂げた打撃をヒットさせるが、グレコローマン・レスリング世界選手権優勝というKIDを上回るレスリング実績を誇るウォーレンに何度もテイクダウンを奪われてパンチを浴び判定負け。総合格闘技ルールでの敗戦は実に7年ぶり2度目。 2009年7月13日、約4年2か月ぶりのK-1参戦となったK-1 WORLD MAX 2009 FINAL8でチョン・ジェヒと対戦し、1Rに先に有効打をヒットさせて追撃したところを右アッパー、左フックの連打を受け失神KO負け。 2009年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜のDREAM vs SRC 対抗戦でSRCフェザー級(-65 kg)王者金原正徳と対戦。63kg契約の試合であったがリーチ差に手を焼き、2Rには金原のパンチを受けてジェヒ戦を思い起こすようなダウンを喫したが、最終3Rに打撃で猛反撃。試合終了直後に腕立て伏せをしてダメージの無さをアピールしたが、判定負け。復帰後、K-1ルールを含め3連敗となった。この試合がMMAルールで唯一、日本人選手に敗北した試合となった。 2010年5月29日、ケージ開催となったDREAM.14でキコ・ロペスと60kg契約で対戦し、KO勝ち。2007年12月31日以来、2年5か月ぶりの勝利となった。 2011年、DREAMを離脱しUFCと契約する。「またベルトをもらって、日本のファンに恩返ししたい」と語った[17]。 UFC2011年2月5日、UFC初参戦となったUFC 126でデメトリアス・ジョンソンと対戦。テイクダウンを奪われるなどして0-3の判定負けを喫した[18]。 2011年5月28日のUFC 130でクリス・カリアソと対戦予定だったが、負傷により欠場した。 2011年9月24日のUFC 135でダマッシオ・ペイジと対戦予定だったが、負傷により欠場した。 2011年11月12日、UFC on FOX 1でダレン・ウエノヤマと対戦。2Rにパンチでダウンを奪うも、グラウンド状態で劣勢となり、0-3の判定負け。 2012年2月26日、12年ぶりに日本で開催されたUFC 144でヴァウアン・リーと対戦。1Rに右フックを効かせ、よろけたリーを左右フックの連打と膝で金網際まで追い詰めるも、後半にリーの右フックを受けて体勢を崩す場面を見せ、直後にタックルを決めたが下からの三角締めから腕十字を極められてタップアウト。生涯初の一本負けを喫した。 2013年7月21日開催のUFC 165においてアイヴァン・メンジバーとの試合が発表されるも[19]、怪我により欠場。[20] また、2014年9月20日に日本で開催されるUFC Fight Night 52での復帰戦が発表されるものの、肺に肋骨が刺さる怪我によってまたも欠場となった。 UFC参戦後に頚椎ヘルニアを患っていたことを対談で明かし、一時は右手の握力がわずか8kgにまで落ちるまで症状が悪化した。[21][22] そのため、3試合を終えた後に長期休養に入る。本人によると、骨折や靱帯断裂等の選手生命の危機を経験してきたが、それとは比較にならない程の痛みで、初めて死んだら楽になるのかなと考えたとのこと。 2015年2月28日、ロサンゼルスで開催されたUFC 184において、ローマン・サラザールと対戦。UFC 144以来実に3年ぶりの復帰戦となった。2RにKIDの右手指がサラザールの目に入ったことで試合が一時中断。インターバル中にサラザールが視力が回復しないと申告したため、KIDが試合を優勢に進めていたが無効試合となった。これが生涯最後の公式戦となった。 2015年9月27日に開催されるUFC Fight Night: Barnett vs. Nelsonにおいてマット・ホーバーとの対戦が発表されたが、両者が負傷したため中止された。 2015年12月31日、TBSで放送された『史上最大の限界バトル KYOKUGEN2015』内の東日本大震災チャリティーイベント『NIPPONFIGHT』において、同年に現役復帰を表明した魔裟斗と11年ぶりに再戦。2ラウンド目に左フックでダウンを奪われ0-3の判定で敗れた。前日計量時点でKIDは62.1 kg、魔裟斗は74.7kgと、両者には軽量級ながら12kg以上の大きな体重差と体格差があったため、KIDは試合後控室の映像で「あそこまで体重に差があると…」と初めて体重差を気にする内容を口にした。 2016年6月19日に開催されるUFC Fight Night: MacDonald vs. Thompsonにおいてクリス・ビールとの対戦が予定されていたが、負傷により欠場となった。 死去2018年8月26日、自身のInstagramにてがんの闘病中であることを公表した[23][24]。公表時にはがんの種類までは触れられていなかったが、のちに胃がんを起因とするがんの全身転移だったこと明かされている[25][26]。交流のあった力士の石浦将勝にはがん公表前に既にステージ4の段階まで進行していたことを打ち明けていたという[27]。 2018年9月18日、所属ジムの公式ツイッターにより同日、41歳で死去したことが発表された[2][3]。最期は療養先のホスピスがあるグアムで在宅ターミナルケアを選択し、ホスピスを出てグアム内に契約したマンションにて家族と余生を過ごした末に多臓器不全により息を引き取った[26] ことが姉の美憂から語られている[25]。 がんとの闘病生活については没後、榊原信行が山本の父・山本郁榮から「2016年時点でステージ4まで進行した胃がんが発覚し、2016年7月から療養を兼ねて沖縄に移住する[26] も、2018年年始にはかなり病状が悪くなり、2018年2月時点にはグアムのホスピスを薦められ、2018年5月から本格的な入院を開始[25]。日本・グアム間を車椅子に乗りながらも往復してファンのために復帰を目指していた」という内容を告白されたことを2018年9月19日放送のフジテレビ系「ノンストップ!」内で語っている[28]。 また、同日の複数の報道番組内にて姉の山本美憂はインタビューに答え、KIDから「美憂と一緒にRIZINに出たい」と言われたことを涙ながらに明かしている。 エピソード
戦績総合格闘技
アマチュア総合格闘技
キックボクシング
グラップリング
獲得タイトルレスリング
総合格闘技
出演テレビ
吹き替え
ラジオCMDVD
書籍
映画出演 山本郁榮 山本美憂 山本アーセン 魔裟斗 前田日明 宮田和幸 朴光哲 矢地祐介 金原正徳ほか。 出演兼ナレーション 窪塚洋介 KIDは2013年5月12日に自身のインスタグラムを更新し「クロくん39歳おめでとう! KUROFIN from 黒門フィルム[33]」と投稿して黒川康平の誕生日を祝っている。生前の山本KIDの親友であった、映像作家の黒川康平だからこそ作れた映画であり、生前の山本KID徳郁を知るさいの貴重なインタビューが収録されたドキュメンタリー映画となっている。 脚注
関連項目
外部リンク
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