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山本 夜羽音(やまもと よはね、1966年7月11日 - 2022年3月14日)は、日本の漫画家。
本名は山本 洋一郎[注 1]。北海道出身。主に成人向け漫画を描く。別に、山本夜羽と玄田生のペンネームがある[3]。代表作に『マルクスガール』(雑誌『ヤングチャンピオン』連載、山本夜羽名義)など[3]。自称、啓蒙エロマンガ家[4]。1990年代後半に「社会派エロマンガ家」「極左エロマンガ家」として注目されたが[6]、後年は漫画家を自称し新作の構想を周囲に語りながら10年以上にわたり作品の発表が見られなかったため「描く描く詐欺」と言われた[6]。新作「マルクスガール・オルタネイティヴ」の第2話制作中にコロナ禍の中で体調を崩し55歳で死去。
1980年代後半、昭和の終わりから平成の始まりにかけての青年期に管理教育への反対運動に加わり、さらに反権力・反天皇制・反原発等を掲げるノンセクト・ラジカル系統の政治運動に参加して活動。漫画家となったのちも「有害社会環境の規制を問いただす青年会議」や「連絡網AMI」の設立[9]など創作表現の自由に関わる運動や、「メンズリブ東京」、東日本大震災被災地を支援する「おたぱっくQB(救援便)」「相馬野馬追応援 武者絵展」[11]、民族差別・人種差別デモに抗議する「レイシズムへの抗議行動・知らせ隊」[12]など様々な社会運動に関わった[6]。
経歴
1966年7月11日、北海道浜益郡浜益村(現・石狩市浜益区)で[13]、小学校教員(北教組)でカトリック信者の父と同じく敬虔なカトリック信者の母の次子(長男)として生まれる[4][14]。本人も幼児洗礼を受けた[15](後年、堅信の秘跡を受けている[16])。札幌市立屯田中央中学校に通学、生徒会機関紙の編集局長として活動し、生徒会誌『開拓』創刊号の表紙画を描いている[注 2]。高校入学の直前に父親がクモ膜下出血で倒れ、死別した[20][4]。
左翼運動へ
北海道札幌北高等学校に入学すると新聞局に入部し[注 3]、マンガ・アニメーション研究会にも関わった[注 4]。1980年代初頭の全共闘回顧ブームの影響を受けつつ高校新聞で「反・管理教育」を訴える記事等を書くほか、1983年の北海道知事選挙では社会党系の横路孝弘を推す勝手連(横路孝弘と勝手に連帯する若者連合)で選挙運動に参加した[20]。一時期は「MPD・平和と民主運動(日本学生戦線)」に参加し札幌の地区高校生キャップ(リーダー)を務めた[24][25][注 5]。また、1983年、高校2年生の時に初めてコミックマーケットに参加した[注 6]。高校時代の恩師として作家・川辺為三[注 7]の名前を挙げている[42][43]。
高校卒業後、1985年4月に群馬県の高崎経済大学経済学部へ進学[注 8]。半年ほどして東京へ移り[4]、管理教育を批判する保坂展人が主宰していた「青生舎」[注 9]に参加[4][注 10]、政治活動を展開[20]。1985年8月の奥付を持つ青生舎 編『元気印大作戦 : 学校解放文庫』(角川文庫)[注 11]に文章と24ページのマンガを寄稿しており[注 12]、おそらくこれが商業流通した山本の最初の漫画作品である。1988年、北海道初の原子力発電所である泊原発1号機の試運転開始阻止運動に参加し[注 13]、北海道庁前で初めて逮捕される[4][20][注 14]。札幌滞在中に同じく東京から参加していた鹿島拾市(加藤直樹)と知り合い意気投合、帰京後はともに「反天皇制全国個人共闘・秋の嵐」周辺の活動に参加する[56]。大学は1988年に中退[44]。
1989年(平成元年)、「秋の嵐」の活動が停滞していた時期に鹿島拾市、林哲生、幸渕史らとグループ「馬の骨」を結成し[11][61]、反原発・反管理教育・反天皇制などを訴えるライブやデモを主催、六四天安門事件に抗議する中国人留学生たちのデモへの参加[注 15]など活発に活動する[注 16]。「馬の骨」は1990年4月、仲間の一人となっていた太田リョウの逮捕[注 17]を契機として解散に向かい、同年6月以降は「秋の嵐」のメンバーとなった[61]。
1990年11月3日、24歳の時、「秋の嵐」の一員として天皇「即位の礼」抗議パフォーマンスを原宿明治神宮前で展開している最中[注 18]、公務執行妨害容疑で仲間のうち4人とともに逮捕[注 19]。11月14日、山本のみ起訴され[注 20]、留置場[85]と拘置所で99日間を過ごした[86][4]。
漫画家へ
1991年、逮捕・起訴により勾留された東京拘置所で山本直樹の短編マンガ「BLUE」を読んで感銘を受け[20]、保釈後、同作品で有害コミック規制騒動の矢面に立たされていた山本直樹に弟子入りを懇願して許され[6]、作品『僕らはみんな生きている』でアシスタントを務める[89][4]。また、大学中退後の1988年9月から1992年まで美術学校セツ・モードセミナーの夜間部[要出典]に就学[注 21]、修了している[要出典]。
- 1993年に「玄田生」名義で漫画家としてデビュー[注 22]。翌年には「山本夜羽」名義で一般マンガ誌にも作品が掲載され始める。作品に「文民少女隊の最期。」(玄田生名義)、「いとこの結婚式」(山本夜羽名義)など。
- 1994年、最初の単行本『青年の性的闘争』(玄田生名義)をヒット出版社から刊行。
- 1999年に単行本『マルクスガール』第1巻、2000年に第2巻を秋田書店から刊行(山本夜羽 名義)。
- 2001年11月、創作表現の規制に反対するメーリングリスト「連絡網AMI」の設立に要友紀子とともに尽力、中心メンバーとして参加[9]。
- 2004年から筆名を「山本夜羽音」に変更[要出典]。
- 2008年10月、秋葉原で街頭演説中の麻生太郎首相に対し、「とっとと解散しる!!!」などと書かれたプラカードを掲げて抗議[6]、「“ホーム”アキバでも麻生首相離れ」と報道される[141]。
- 2014年11月、「JコミFANディング」にて「復帰支援FANディング」を開始[3][6]。
- 2015年11月、参加していた反差別団体「レイシズムへの抗議行動・知らせ隊」が、女性メンバーにセクハラ・痴漢行為を行ったとして広報担当の山本を同団体から除名した事実を公表[注 44]、山本もこれを認める[注 45]。このセクシャルハラスメント事件を機に以前の仲間から距離を置かれた[注 46]。
- 2016年5月、自身のTwitterアカウントで、名指しで繰り返し特定の大学講師のセクシャルハラスメント行為を指弾したが[注 47]、翌日には「事実とは異なる、名誉を毀損する」発言だったとして謝罪、関連発言をすべて削除・撤回し「本アカウントも無期限活動停止とします」とツイートした[注 48]。
- 2019年4月、「創作表現規制に反対する10代の会」を支援。同団体は国連子どもの権利委員会にパブリックコメントを送付し、ステークホルダー(利害関係者)として団体名が記載された[178]。
死去
2022年1月、新型コロナウイルスに感染し入院、2型糖尿病を患っていることをTwitter上で報告[182]。回復し退院したが[183]、約二カ月後の3月13日、39度の発熱をTwitter上で報告[184]、翌14日に心不全で死去[172][11]。55歳没。葬儀は3月22日、カトリック高円寺教会の聖堂でミサ形式でおこなわれた[注 50]。葬儀ミサの司式は晴佐久昌英司祭が務めた[187][15]。
没後の2022年4月5日から4月8日までの四日間、「秋の嵐」関係者などかつての仲間有志の主催[11]による回顧展「大『山本夜羽音』展」が高円寺の素人の乱12号店で開催された[188][17]。また同年12月末開催のコミックマーケット101で、山本のエッセイ漫画作品を収めた同人誌『迷走日記ボトムレス 追悼編』が元妻のほしのえみこの編集により刊行された[191]。
山本の残した漫画原稿アナログ原画は横手市増田まんが美術館で保管される。
作風と人物
作風
人物
作品
- 玄田生 名義
- この他『教科書が教えない小林よしのり』(ロフトブックス、1997年)、『性のゆらぎを見つめる : フェミニズム1992』(ユック舎、1992年)にも寄稿している。
- 山本夜羽 名義
- 『キックアウト・ラヴァーズ : 夜羽黙示録』講談社〈ヤンマガKCエグザクタ〉、1996年
- 『ばちかぶり姫 : 夜羽黙示録』集英社〈ヤングジャンプ・コミックス〉、1997年
- 『共犯妄想』ワニマガジン社〈ワニマガジンコミックス〉、1998年
- 『J.P.S : Justice & Peace Spirits』ぶんか社〈ぶんか社コミックス〉、1998年
- 『黒の福音書 山本夜羽初期作品集 上』海王社〈海王社コミックス〉、1998年
- 『赤の黙示録 山本夜羽初期作品集 下』海王社〈海王社コミックス〉、1998年
- 『エス/太陽はボクらの敵』実業之日本社〈マンサンコミックス〉、1999年
- 『マルクスガール』秋田書店〈ヤングチャンピオンコミックス〉、全2巻[注 56]
- 『イン&ヤン・ドールズ』竹書房〈バンブー・コミックス〉、1999年
- 『ORGAN BOX(オルゴンボックス)』ぶんか社〈ぶんか社コミックス〉、1999年[注 57]
- 『PUSSY TALKIN' : Justice & Peace Spirits』ぶんか社〈ぶんか社コミックス〉、2000年
- 『7days 13hours』ぶんか社〈ぶんか社コミックス〉、2001年
- 『新世紀無頼伝 侠子エクスプロージョン』集英社〈ヤングジャンプ・コミックス〉、2001年
- 『閃光のアーシュラ : ウタリア戦記』エニックス〈GFC〉、2002年
- 『Winter Guarana』ぶんか社〈ぶんか社コミックス〉、2002年
- 山本夜羽音 名義
- 『ナイトフラッパー : 山本夜羽音式福音書』大都社〈ダイトコミックス〉、2004年
- 『ラブ・スペクタクル : 山本夜羽音式性愛闘争試論』宙出版〈ミッシィコミックス〉、2005年
- 『聖隷』富士美出版〈富士美コミックス〉、2005年
- 『ナードボイルドR』蒼竜社〈プラザコミックス〉、2007年
- 『渋谷少女リアル』松文館〈別冊エースファイブコミックス〉、2007年
- 「マルクスガール・オルタネイティヴ」情況出版〈情況 2020年秋号〉、2020年
- 遺稿集(山本夜羽音 名義)
- 『迷走日記ボトムレス 追悼編』 あづき堂本舗、2022年 ※同人誌[注 58]
脚注
注釈
- ^ 山本の逝去を報告するツイートに本名が記され、同スレッドに漢字表記の訂正がある[1]。また山本自身も本名を「山本洋一郎」と述べている[2]。
- ^ 屯田中央中学校生徒会誌『開拓』創刊号の実物が山本の遺品中から発見されており、表紙写真がある[17][18]また『開拓』創刊号に山本が記した編集後記もTwitter上で写真が公開されており、生徒会機関紙『ふろんてぃあ』、生徒会誌『開拓』の編集発行を統括していたことがわかる[19]。
- ^ 角川文庫『元気印大作戦』(青生舎 編)[21]の刊行と山本の参加を伝える北海道新聞記事(1985年9月9日付、後掲)に、「記事を書いたりイラストを描いたり、高校時代に新聞局員として鍛えた腕を存分に発揮している」とある[22]。山本は札幌北高校新聞局で「1983年学校祭展示『光州事件と731部隊と愛知の管理教育』 84年企画『保坂展人&藤井誠二講演会とフリートーク』」を企画・展示したと述べている[23]。
- ^ 山本の遺品中に札幌北高マンガ・アニメーション研究会が発行した同人誌『エンドレス』がある[19]。
- ^ 1983年にMPDを「脱会」したと山本は述べている[26][27]。
- ^ 山本は「1983年の最後の春コミケ」「春コミ(C23)」で初参加したと回想しており[28][29][30]、1983年4月3日開催の「コミックマーケット23」であったことがわかる。サークル参加ではなく一般参加者だった(山本の最初の同人誌制作は1988年頃という[31][32])。また、高校の修学旅行で京都を訪れた際には大阪のゼネラルプロダクツの店舗を訪ねている[33]。
- ^ 川辺為三(かわべ ためぞう、1928年 - 1999年)は樺太生まれの教育者・文学者[34]。高校教諭(国語科)ののち國學院短期大学助教授も務めた。1956年、高校教員のかたわら文芸同人誌『凍檣』を創刊して小説作品を発表した(第6号以降『くりま』に改題、直木賞作家や芥川賞作家を輩出)[35]。1984年、『岬から翔べ』で第18回北海道新聞文学賞受賞[36]。1985年からは北海道を代表する月刊文芸同人誌『北方文芸』の編集を森山軍治郎[37][38]、鷲田小彌太とともに引き継いだ[39]。また、札幌のカルチャーセンターで「随筆・創作教室」を開講。藤堂志津子、朝倉かすみ、まさきとしから多くの北海道の作家を育てた[40]。詩人の山本博道は甥[41]。
- ^ Facebookプロフィール欄に「出身校: 高崎経済大学 経済学部/1985年4月1日〜1988年」と記述[44]。また、北海道新聞記事(1985年9月9日付、後掲)に「この大学生は今春から高崎経済大学に通っている山本洋一郎さん(19)」とある[22]。
- ^ 青生舎は保坂展人が1976年から1996年まで運営した若者が自由に出入りできるフリースペースで、1983年から89年までミニコミ誌「学校解放新聞」(のち『KIDS』に改題)[45]も編集・発行していた[46]。当時の雰囲気として、たとえば次の証言。「伊藤〔書佳〕: 青生舎は、70年代の後半から保坂〔展人〕さんと仲間の人たちが運営していた、若者たちが集まるフリースペースです。保坂さんが10代のころに文庫本がボロボロになるまで読んでいた魯迅の「青年を殺戮するのは、やはり青年です」という言葉にヒントを得て、青年を生かす場所をつくろうと「青生舎」という名前にしたのだそうです。青生舎では、いろんなイベントやお祭りも企画されてました。原発問題にも取り組んでることがあったし、喜納昌吉さんのコンサートが準備されることもあった。/ 当時、保坂さんは『月刊明星』とか『セブンティーン』に連載していて、中高生の読者から手紙がたくさん来てました。実際に保坂さんを訪ねて青生舎を訪ねてくる中高生もたくさんいました。家出してくる子もいた。保坂さんは中高生を取り巻く教育問題の、すごく真ん中にいたと思います。」[47]。なお、『学校解放新聞』創刊を1984年とする典拠もある[48]。
- ^ 著述家の松沢呉一は山本との出会いについて、「私が山本〔洋一郎〕君と知り合ったのは、現世田谷区長の保坂展人がやっていた教育をテーマにした団体・青生舎だったと思います。代々木にオンボロ事務所があって、そこで会ったんじゃなかろうか。1980年代半ば。私は20代、彼はまだ10代だったはず。(..) あるいはそのあと彼が「秋の嵐」の活動をしている時だったか。「秋の嵐」のメンバーに知り合いがいて、彼らが原宿で情宣している時に会った記憶もうっすらあります。」と回想している[49]。
- ^ 平岡章夫によれば、『元気印大作戦』[21]は「学校内で反管理教育運動を実践するためのマニュアルとして広く読まれた」[46]という。同書の歴史的位置づけについてWEB上で簡便には平岡の「学校教育をめぐる『自己決定権』論批判」の第1節および第3節を参照[46]。同論文はのちに、論文「『学校解放新聞』の研究 : 反管理教育運動の歴史を再検証するために」[50]等とともに平岡の単著『多極競合的人権理論の可能性』(2013年)[51]に収められた。
- ^ 山本の遺品中から発見された北海道新聞記事「後輩諸君、青春燃やせ!」(1985年9月9日付 切り抜き)に、「(..) 編集スタッフの中に札幌出身の大学生がいる。文章はもちろん、24ページにわたるマンガも執筆。」とある[22]。また、外山『青いムーブメント』(彩流社)も参照。
- ^ 山本は、札幌の学生たちが結成した反原発グループ「札幌ほっけの会」[53][54]の活動に参加した[55][56]。なお、反原発運動の略年表には「1988年 (..) 7.21 北海道電力泊原発への初装荷燃料搬入に海陸で阻止行動。」が見え[57]、当時の状況を窺わせる。
- ^ 道庁前での逮捕は1988年8月20日で建造物侵入および公務執行妨害の容疑とされる[58]。山本はこの時の経験を1989年末に「馬の骨」が製作した同人誌『宝馬』掲載の漫画「原発トマリ記念日 獄中記」(16ページ)に描いているという[58]。
- ^ 1989年6月の天安門事件に際会した日本にいる中国人留学生がおこなった駐日中国大使館への抗議デモ。そこに「馬の骨」が参加した経緯と様子については、鹿島拾市の「『馬の骨』のころ」後編に詳しく、また山本自身もTwitter上に回想を残している[62]。また山本は「天安門に呼応し救援したのは左派です。僕も中共公安から追われてる広場参加学生を匿いました。」とも述べている[63]。
- ^ 「馬の骨」の活動履歴や顔ぶれについては、山本とともにグループの中核を担った鹿島拾市が同人誌『黒/La Nigreco』[64]に「『馬の骨』のころ」と題した見事なポートレートを発表している。前後編とも山本のブログでWEB公開[65]されている。また、外山恒一『青いムーブメント』(彩流社)の記述や『改訂版 全共闘以後』(イースト・プレス)[67]も参照。
- ^ モヒカン頭がトレードマークだった太田リョウは1990年4月1日夜、警視庁に一人で闖入し、警察官を殴って逮捕された。事件に言及する記述がWEB上にいくつかあり[68][69][70]、太田の逮捕とその意味に触れる“外山恒一『全共闘以後』刊行記念トークイベント”(山本も登壇している)の記録も冒頭部が無料提供されている[71]。
山本と太田の出会いについては、鹿島拾市「『馬の骨』のころ」前編のほか、ミニコミ誌『人民の敵』第10号に太田自身のロングインタビュー(1993年2月21日取材)があり[72]、また外山恒一によるブログ記事「青いムーブメント(20)」[56]も参照。
- ^ 「秋の嵐」が原宿駅すぐ明治神宮前の陸橋神宮橋で展開していた「スピーカーズ・コーナー」活動[74]を指す。「スピーカーズ・コーナー(SC)」については、当事者の記録として「秋の嵐」のリーダーで1995年に事故死したジャーナリスト・見津毅の遺稿集『終止符からの出発』(1995年)所収の「原宿から国家を撃て!」、「ホコ天で反天皇」および「スピーカーズ・コーナーの誕生」がある。さらに詳しくは、外山恒一『改訂版 全共闘以後』(2018年)[67]を参照。
- ^ 山本自身は1997年の単行本のあとがきで、「原宿で街頭パフォーマンスみたいなことをやってたら10人くらいのメンバー相手に機動隊が120人くらいやってきて規制すんで/ムカついて公安刑事の頭をプラスチックのバー〔カラーコーンを連結するコーンバー〕でひっぱたいて捕まった」と記している[79]。穴水美樹が2022年に記した山本追悼文は、1990年当時のビラ(チラシ)に付したキャプションで、「山本夜羽音は『道路交通法』違反の容疑で逮捕された」とビラ内の表現に沿って逮捕理由を説明している[11]。一方、「秋の嵐」を率いた見津毅が山本らの逮捕の翌月に『インパクション』誌に発表した文章は、同事件について「11月3日、〔警察は〕三回にも渡って〔我々のスピーカーズ〕コーナーに襲撃を掛け、合計5名もの仲間を『公務執行妨害罪』などとデッチ上げて逮捕し去ったのだ」と記し、見津の没後に編纂された年譜には「11・3/ 文化の日=明治節・即位の礼・大嘗祭反対でSC〔スピーカーズ・コーナー〕を展開。大弾圧〔を受ける〕。/ 国賠原告〔※「秋の嵐」が提起した国家賠償請求訴訟の原告〕を含む5人が『公務執行妨害』容疑で逮捕。警官の暴行で見津〔毅〕全治3週間の負傷、救急搬送。夜の弁護士接見の際、同行したメンバーが『軽犯罪法違反容疑』(大工道具の所持)で1人逮捕」とある。以上を勘案するに、「秋の嵐」が原宿駅前の神宮橋で展開していた「スピーカーズ・コーナー(SC)」を警察が道交法違反を理由に規制(排除)しようとし、その過程で公務執行妨害容疑が発生し、山本ら5名は逮捕されたものと考えられる。
- ^ 同日、山本以外の逮捕者4名は釈放された[11]。東京拘置所に入れられた山本へのカンパと支援を訴える当時のビラ(チラシ)に、5名の逮捕と山本1名のみが起訴された状況が報告されている。ビラは左側2/3に「GAUGAU(ガウガウ)捕らわる!」と題して爆裂トシコが描いた山本を示すイメージイラストとメッセージを添え、右側1/3に「11月3日原宿ホコテンの惨事/スピーカーズコーナーKさつに襲撃さる!!」と題して状況を報告したもので、「カンパ・応援れんらく先」は「渋谷区〔※出典で伏せ字※〕住民ひろば内/〈秋の嵐〉山本救援会まで」となっている[11][83]。「秋の嵐」のリーダー・見津毅の文章「原宿から国家を撃て!」(逮捕の翌月、1990年12月初出)にもリアルタイムの記述があり、「12日間の不当勾留の末、〔逮捕した5名の〕内1名をなんと起訴して来たのだ」と記される1名が山本を指し、「東京拘置所にブチ込まれている仲間・山本君」とある(見津毅年譜の記載も対照せよ)。
- ^ Facebookプロフィール欄に「出身校: セツ・モードセミナー/1988年9月〜1992年」と記述[44]。
- ^ デビュー作は、さーくる社発行のビニ本雑誌掲載の漫画「セーラーミント」、次いで「文民少女隊の最期」など数作をビニ本で描き、一般書店で販売される雑誌に初めて掲載された作品は「時計仕掛けのせつな」だったと山本は評論家の永山薫との対談で述べている[90]。「玄田生」のペンネームを商業媒体で初めて使用したのはデビュー前年、1992年夏に刊行された『性のゆらぎを見つめる : フェミニズム1992』(ユック舎)[91]に寄稿した「不親切な解説まんが 有害コミックとは何ぞや?」。山本自筆の肩書きはまだ“漫画家”ではなく、「某『有害』マンガ家アシスタント」となっている[92]。「某『有害』マンガ家」は山本直樹を指す。玄田生名義の最初の同人誌は山本直樹のアシスタント時代の『JPS Vol.1』であった[93]。
- ^ 山本は自身を「『メンズリブ東京』を豊田正義と立ち上げた」「創立時メンバー」と述べている[94][95][96][97]。かつて存在した「メンズリブ東京ホームページ」[98]の「古文書館」ページには2000年以前の関連文書がアーカイブされており、山本の名前が登場する記録(「過去の活動の記録 (1995-2000)」[99]等)が含まれていた。メンズリブ東京の発足当時の性格と位置づけについてWEB上で読める簡単な概括として、設立の四年後に書かれた大山治彦・大束貢生の共著論文「日本の男性運動のあゆみI :〈メンズリブ〉の誕生」がある[100]。
- ^ イラストは機関紙『救援』の送付を対価として実質無償で提供された[102][69]。山本自身も後年、「政治行動における被弾圧者の救援を行う『救援連絡センター』のリーフレット『救援ノート』の表紙イラストを無償で提供した」と述べている[103]。
- ^ 山本自身が『救援ノート』表紙キャラクターを「重信たん」と呼んでいる[103]。また、別の機会に「我が幻想の重信房子たん☆」と題して山本の描いたイラスト[106]があり、『救援ノート』第7改訂版装画との近似を確認できる。なお、山本による『救援ノート』第6改訂版(1997年)の表紙イラストには「女性の胸を強調しすぎている」との批判があり、2001年の第7改訂版では方向性が調整されている[103]。それについて山本は、「まあ俺の『救援ノート』の表紙イラストも凄まじく理不尽な批判食らったけど、面と向かって文句ゆう『批判者』は皆無だったよ。(..) 結局、無難で都合よい表現だけ使いたいってのは漫画家やイラストレーターにすげー失礼だって気づけよいい加減。」と2013年に述べている[107]。
- ^ 佐藤悟志は山本の代表作『マルクスガール』の登場人物のモデルの一人とされる[108]。山本と佐藤の関係は1980年代末の「馬の骨」「秋の嵐」時代に遡る。佐藤の政治的スタンスも含め、党派的な文献だが外山恒一の「野間易通 徹底批判」を参照[109]。
- ^ ロフトプラスワン襲撃事件について、関連リンク集が公開されている[110]。同リンク集作成者による事件の概説もある[111]。また、「共同声明」関係者が関連資料や諸発言をまとめて1999年に刊行した冊子『1997「ロフトプラスワン襲撃を許さない共同声明」全記録』[112]もほぼ全文がWEB上で読める[113]。2016年に書かれた新宿ロフトプラスワンを舞台に起きたトラブルを通覧する取材記事でもこの事件が取り上げられている[114]。
- ^ 「呼びかけ人」の筆頭にある「大田リョウ」は太田リョウに同じ。太田は2002年に病没するが、晩年は自署を「大田」としていた。1963年生まれ[72]、本名は木村美治であったという[68]。続く「鹿島拾市」は加藤直樹の筆名。いずれも1980年代末のグループ「馬の骨」時代からの山本の友人。なお、佐藤を襲撃したブント(戦旗 荒派)側を指揮していたのも山本の高校時代からの友人と目され、山本は『1997「ロフトプラスワン襲撃を許さない共同声明」全記録』に複雑な心境を書き残している[118]。
- ^ 山本の2013年のツイートに「1999年9月9日入籍から14年目」とある[120]。また以下のツイート[121][122]参照。
- ^ 離婚の時期について、同人誌『迷走日記ボトムレス 追悼編』の巻頭にほしのえみこが寄せた漫画に、山本の訃報を聞いて「彼とは離婚して7年も経っていたけど/突然すぎてさすがにショックだった」とある。なお、離婚前年の2014年2月から別居していたことが山本のツイートでわかる[124][125][126][127][128]。
- ^ のちに同企画の主催を引き継いだスタッフ・はいぼく(鵜殿篤[130][131])の回想に、「マンガ家の山本夜羽音さん(当時は夜羽)が新宿ロフトプラスワンを舞台にメガネっ娘居酒屋を仕掛けたわけです。聞くところによると、2chで盛り上がって、そのままの勢いで開催を決定したらしいですね。(..) 第一回の出演者は、山本夜羽さん(主催なのに原稿締切に追われて遅刻!)、(..)。さらに、すたじおみりすの中の人や、ほしのえみこさん(マンガ家)が乱入して大変なことになりました。」とある[132]。
- ^ 山本の主催は第2回にあたる「メガネっ娘・居酒屋『委員長』冬期」(2003年1月11日開催)まで[134]。第3回についてはスタッフの回想に、「第二回の後はいろいろな事情でタイミングが合わず、しばらく開催されなかったのですが、2005年に別の主催の方によって眼鏡っ娘トークイベント『私立眼鏡っ娘学園』が行われました」とあり[135]、同じく第4回以降について、「第4回から私〔はいぼく〕が主催で〔『メガネっ娘居酒屋「委員長」』を〕仕切ることになりました」とある[136]。
- ^ 福井県鯖江市は眼鏡フレームの日本国内生産シェア90%以上を誇り、「めがねの聖地」としてPRしている[137]。なお、福井県は山本の父方の出身地でもあり[20]、2014年に曽祖父の墓を尋ねあてている。
- ^ おたぱっくQB(救援便)の公式ブログは2013年7月の「第二回 相馬野馬追応援『武者絵』展」の開催告知が最終更新となっている[143]。山本は2011年8月発行のミニコミ誌『マンガ論争 9』に寄稿したレポートで、名称「おたぱっくQB(救援便)」は八的暁(元NGO-AMI代表理事)に相談して定めたと述べ、実務面では「馬の骨」時代からの旧友・穴水[11]がバンド仲間と開始していた被災地支援活動「Human Recovery Project」[145][146]のノウハウや輸送リソース、高円寺「素人の乱」からの物資集積地の無償提供、地元不動産屋の紹介による廉価の倉庫賃貸など多数の協力を得た、と記している。協力した穴水は山本への追悼文で、「予想を遥かに超える物資が殺到し、ただ慌てふためきオロオロするだけの彼を支えたのは、素人の乱と、かつての秋の嵐の仲間達だったのね。(..) 現地〔被災地〕に連れて行ってあげただけでなく、荷物保管の倉庫代を全て〔立て替えて〕出してあげたんだけど、結局〔貸したお金は〕帰ってこなかったわね(笑)」と記している[11]。
- ^ 企画当初は同図書館で主催する「似顔絵&お絵描き教室」にあわせて開催する「マンガ家が描く『武者絵』展」として、展示およびその後のチャリティーオークションに提供する作品をマンガ家・イラストレーターから募った[149]。
- ^ 横田守は第1回「『武者絵』展」に先立ち2012年1月のおたぱっくQBによる石巻支援プロジェクト「マンガ家が教える本気のマンガ術!」第1弾[150]にも協力している[151]。
- ^ 開催地の南相馬市側での反応として2012年7月当時の紹介記事が残っており[152]、WEB上の関連ツイートまとめ[153]もある。第1回武者絵展は福島県相馬市での開催後、2012年8月に東京の新宿で[154]、翌2013年2月に渋谷で[155]展示イベントを開催した[156]。展示作品はネットオークションで販売し、売り上げ金約90万円が一般社団法人ホワイトレイヴンを通じて南相馬の子供支援に寄附された[157]。
- ^ 「第二回 武者絵展」では、山本は横田とともに武者絵展実行委員会副代表を務めた(代表は南相馬市出身の牛木実)[158]。
- ^ 2023年3月現在。
- ^ 山本による「武者絵展」の企画・開催について、“おたぱっくQB”の実務を援助した旧友の穴水は「それが発展し、南相馬支援の『武者絵展』に繋がるわけです。/夜羽音の行動で唯一と言っていいほど評価されているこの行動も、実は私達や横田守先生のバックアップが無ければまるでなりたたなかった。/彼は後先考えず、声を挙げるのがとにかく早かったからね。」と追悼文で述べている[11]。
- ^ “レイシストをしばき隊”を主宰した野間易通は、「〔前出の〕外山恒一、松沢呉一、山本夜羽音、鹿島拾市は、実は全員『レイシストをしばき隊』になんらかの形で関係している。山本と鹿島は一度だけしばき隊に参加したが、考えが合わないということで除名となった。鹿島拾市はのちに反レイシズム運動の中から出た書籍としては最も商業的に成功した『九月、東京の路上で』(ころから、2014年)を著した加藤直樹である。」と記している[161]。山本自身も、「僕が参加してる『反レイシズム【知らせ隊】』は僕がしばき隊の行動に参加した際、〔しばき隊の〕あまりに酷い罵倒を批判したら即日『除名』されたのを契機に離れた連中が『別のやり方』を模索していく中で結成されました。」と述べている[162]。
- ^ 「知らせ隊」の成り立ちと活動については、同団体の中心となった山本の旧友加藤直樹がインタビューで詳しく語っている[12]。また明戸隆浩らの『「現代日本における反レイシズム運動」共同研究 中間報告書』は、「またこの時期〔2013年3月〕には、『民族差別(レイシズム)への抗議行動・知らせ隊』が、沿道の人々に在特会らのデモについて説明するチラシを配布する活動を行っている。なお『知らせ隊』は2013年8月以降、関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺の記録を90年前と同じ日の同じ時刻に掲載するという『9月、東京の路上で』というプロジェクトを開始したが (..)、これは後に加藤(2014)〔※加藤直樹『九月、東京の路上で : 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』〕としてまとめられている。」(p. 11)と注記している[163]。
- ^ 当時「知らせ隊」の“準メンバー”だった[164]柏木哲夫は、「2013年の春は新大久保の路上にいた。(..) 初めは山本夜羽音や加藤直樹〔鹿島拾市〕氏らとつるみ『知らせ隊』的なことをやっていたが、(..)」[165]、「『知らせ隊』のメインメンバーだった山本夜羽音や加藤直樹氏も (..)」[166]と回想している。他にも当時の抗議活動参加者による「山本夜羽音氏らの《知らせ隊》も活動がされていた。/ヘイトデモにあわせて沿道をあるきながら、あれがどういうデモなのかを説明する小さなチラシを道ゆく人に手渡して歩いていた。」等の証言がある[167]。また山本も翌2014年の誕生日を前に自身の肩書きを「山本夜羽音(啓蒙エロ漫画家・めがねっ娘教団宣教部大司教・ヘタレ脱原発・反レイシズム知らせ隊広報・おたぱっくQB《活動停止中》)」と記している[168]。
- ^ Twitterアカウント「『朝鮮人虐殺はなかった』はなぜデタラメか」で、「【報告】『レイシズムへの抗議行動・知らせ隊』からのお知らせです。これまで対外的な発表任務を担っていた山本夜羽音氏が、メンバーから外れることになりました。山本氏が一人のメンバーに対しセクシャルハラスメント行為(身体に抱きつきキスを迫るなど)を犯したことがその理由です。」と発表された[169]。
- ^ 山本はセクシャルハラスメント事件公表の約二週間後に、「悩みましたが、件の問題は自分の言葉で謝罪します。」とツイートした[170]。また2017年にセクハラについて「おまゆう? いや、やらかした自分だから言えるんだよ」とも発言している[171]。
- ^ 1980年代末の「馬の骨」「秋の嵐」時代からの同志[172]による「数年前にセクハラ騒動を起こしてから、洋一郎はかつての仲間からパージされていた。/私も彼とは距離を置いていた。」[11]、同じくデビュー前からの友人の「例の『セクハラ』(実情を訊いたけど、そんなもんでは済まない気がしますが、被害受けた人や周りの方々の事もあるので詳細かけません)問題が発覚して、彼自身が色々な『仲間』から絶縁されていく訳です。『セクハラ』だけでそうなったと言うよりも (..) あの事件を切っ掛けにするかのように、もう面倒見きれない。って絶縁していった。」[61]、また漫画家仲間の「因みにボクも酔っ払ってセクハラをしたのはさすがに許せなくて、一度縁を切ったことがあります」[173]といった証言がある。
- ^ 5月8日の深夜、山本は当該人物は「他者〔山本〕をセクシスト呼ばわりしながら影で抜け抜けと性暴力繰り返してるセクハラ事件当事者」[174]だとして、実名を挙げて、「飲みの席で女子の乳揉むとか教え子ホテルに連れ込むとかやってる」[175]、「大学教員が教え子ホテルに連れ込むってのは、俺が犯した友人への性的なアプローチをセクシズムと指弾される以前の、明確な『セクシャル・ハラスメント』じゃないのかね?」[176]、「アンティファだの反レイシズムだのより、人としてやっちゃなんねぇ事、あるだろ?」[177]といったツイートを繰り返し、WEB上に情報が拡散した。
- ^ 山本は2016年5月9日夕方、「昨晩、XX氏に対して事実とは異なる、名誉を毀損するツイートを発信した事を謝罪します。XX氏、関係者各位に多大なご迷惑をおかけしました。/関連ツイートは全削除します。本アカウントも無期限活動停止とします。告知限定サブアカ @gender_show を別途利用下さい。」とツイートした。
- ^ クラウドファンディングサイト「READYFOR」を使って行われ、2020年1月までに41人から計48万円を集めて終了した[179]。
- ^ 「葬儀ミサ」として告知された[185][186]。また司式した晴佐久昌英も追悼文に「葬儀ミサ」と記している[15]。
- ^ 2013年のJコミの紹介文(赤松健名義)に、「私のような眼鏡フェチの間ではつとに知られる山本夜羽音先生」とある[194]。20年来の付き合いのあった鵜殿篤は追悼文で、「私は夜羽音さんの眼鏡活動にだけ関わって、特に政治的な活動や言動には意識的に距離を取っていたので、いろいろ知らないことが多いはずだ。私に分かるのは、夜羽音さんの眼鏡愛が本物だったということくらいだ。」と述べている。山本自身も2012年に、「俺の『メガネっ娘萌え』も諧謔のスタイルとして遊んでいたはずなのに、現実に美人のメガネっ娘と結婚してしまった辺りから何かが狂ってしまった。本物のフェティシストになってしまった。マズいと思いながら抜け出せないorz」と述べている[195]。
- ^ 「畜」字を上下に分解すると「玄田」になる。差別戒名として「玄田牛一」が知られている。
- ^ 水月モニカは1995年5月、レズビアン・バイセクシャル雑誌『フリーネ Phryné』創刊号(三和出版)にて漫画家デビュー(タデノナギコ名義「妹の結婚式」[211])。27歳のときレズビアンを自覚したという[212][213]。なお、水月が2009年に描いた漫画に「弟夫婦の仕事場を間借りしてます」として山本の姿が見える[214]。
- ^ ほしのえみこのツイートに「私の元夫であり友人でもあった山本夜羽音が昨夜亡くなりました」とある[215]。離婚後も友人としての付き合いは続き、没後の遺品や原稿の整理も手伝っている。山本の作品集『迷走日記ボトムレス 追悼編』を没後に編集・発行した。
- ^ 山本の初の作品集単行本。タイトルは山本が傾倒していたヴィルヘルム・ライヒの著書『青年の性的闘争』[217]に基づく[218]。
- ^ 登場人物や団体にはさまざまなモデルがいる[219][220][179][221]。
- ^ タイトルは山本の高く評価していたW・ライヒが、ガン治療に効果があると主張して自身のオルゴン理論(orgone theory)に基づき開発・販売した「オルゴン集積器(Orgone accumulator)」の和名[218]による。
- ^ 山本がTwitter上で発表していたエッセー漫画「迷走日記ボトムレス」シリーズを収めた追悼同人誌。離婚した元妻のほしのえみこが山本没後に編集したもので[191]、2016年8月に山本が発行した『迷走日記ボトムレス 総集編 1』(ANARCOMIX 発行[222][223])に未収録原稿および友人や家族など6名の追悼文を加えている[224]。発行元の「あずき堂本舗」は、ほしの主宰の同人サークル。経費を除いた売り上げは山本の遺族に寄附される[225]。
出典
参考文献
- 「小特集「追悼──山本夜羽音」(寄稿: 山本直樹、穴水美樹、晴佐久昌英)」『情況(第5期)』第5巻第3号、情況出版、2022年7月20日、248-255頁。
- 山本夜羽音 著、ほしのえみこ 編『迷走日記ボトムレス 追悼編』あづき堂本舗、2022年12月31日、36頁。 ※同人誌。(あづき堂本舗は、ほしの主宰の同人サークル。)
- 鵜殿 篤 (2022年3月15日). “山本夜羽音さんに哀悼の意を表する”. 眼鏡文化史研究室. 2023年3月3日閲覧。
- 鹿島拾市「「馬の骨」のころ・前編」『黒/La Nigreco』第9巻、黒 La Nigreco、2003年6月。 ※同人誌。(向井孝・水田ふう・中島雅一が発行していた同人誌の「第2次第2号 (N-ro.9)」に掲載。2004年に山本夜羽音ブログでWEB公開された。)
- 鹿島拾市「「馬の骨」のころ・後編」『黒/La Nigreco』第10巻、黒 La Nigreco、2004年6月。 ※同人誌。(前掲同人誌「終刊号 (N-ro.10)」に掲載。同上。)
- 長岡義幸(著)、永山薫・佐藤圭亮(編)「「有害」コミック問題を考える会の思い出 (特集内特集:表現規制反対運動の軌跡(1))」『マンガ論争』第9巻、永山薫事務所、2013年8月10日、40-46頁。 ※ミニコミ誌。
- “大「山本夜羽音」展@高円寺 素人の乱12号店 (2022/04/05-08)”. Togetter (2022年4月16日). 2023年3月1日閲覧。
- 山本夜羽音(著)、永山薫・昼間たかし(編)「おたぱっくQB・ドロナワ的被災地支援顛末記 前編 (緊急特集:震災、津波、原発事故とマンガ)」『マンガ論争』第5巻、株式会社n3o、2011年8月11日、38-42頁。 ※ミニコミ誌。
- 山本夜羽音(著)、永山薫・昼間たかし(編)「おたぱっくQB・ドロナワ的被災地支援顛末記 第2回 (連載ルポ)」『マンガ論争』第6巻、永山薫事務所・株式会社n3o、2011年12月29日、36-39頁。 ※ミニコミ誌。
- 見津 毅 著、見津毅君遺稿集刊行委員会 編『終止符からの出発』インパクト出版会(発売 イザラ書房)、1995年。ISBN 4-7554-0051-1。
- 外山恒一『青いムーブメント : まったく新しい80年代史』彩流社、2008年。ISBN 978-4-7791-1336-9。
関連項目
- 反天皇制全国個人共闘・秋の嵐 - 山本が参加した1980年代末から1990年代の若者中心の政治運動。
- AMI - 山本が設立に関わった「連絡網AMI」の後身。NGO-AMI。
- 鹿島拾市(加藤直樹) - 1980年代末からの盟友
- 佐藤悟志 - かつての同志。『マルクスガール』登場人物のモデルの一人。
- 豊田正義 - 設立に参加した「メンズリブ東京」の代表者。
- 保坂展人 - 運営していたフリースペース「青生舎」に山本が参加した。
- 山本直樹 - 漫画の師匠。
- ヴィルヘルム・ライヒ - 著書『階級意識とは何か』を高く評価していた。
- 東浩紀 - 友人[要出典]。
外部リンク