安居喜造
安居 喜造(やすい きぞう、1899年12月2日 - 1983年9月30日)は、日本の実業家。東レ会長、経団連副会長、日本化学繊維協会会長等を務めた。また日本国有鉄道監査委員会委員長を務め、国鉄再建のため尽力した。1979年勲一等瑞宝章受章。 人物近江国彦根・龍潭寺を菩提寺とする安居家(彦根藩)の出身。父の喜造は、犬上郡選出県会議員であったが、大正デモクラシー時代[1]、彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部の前身)設立委員長に就任[2]、同校設置運動のため東上不在中に無理矢理に、彦根町長に選挙され[3]、在任中は彦根高商設置のため始終奔走し、翌年に彦根高商新築の着工を見て辞任[4]したことで、「高商町長」(彦根町) の愛称でよばれた[2]。姉・絹は、美濃赤坂の「先祖は桓武天皇第二皇子の嵯峨天皇にまで遡る」旧家・矢橋家[注釈 1](矢橋敬吉の二男・矢橋次郎[6][7])に嫁ぐ[8][9][10]。父の喜造から見れば、矢橋宗一・矢橋恒男・原乙彦は、孫[11]、矢橋慎哉・原秀六は、曾孫。 伊藤忠商事の伊藤忠兵衛、日本生命保険創業者弘世助三郎の長男で同社第3代社長の弘世助太郎、彦根町長の実父・喜造らとともに、彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部の前身)創立のための寄附をなし[12]、また、近江水力発電の設立[13]に際して出資し、ダム建設ひいては琵琶湖東岸地域への電気供給を実現させ、さらには、1947年4月から同年7月までの間、公選初代・彦根市長を務めた(「彦根市#歴代市長」を参照)親族の安居喜八は、安居家・本家・当主。 旧制滋賀第一中学(のちの滋賀県立彦根東高等学校)を経て、1926年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)を卒業し、三井銀行入行。大学では大塚金之助ゼミナールに所属[14][15]。 三井銀行で常務、専務を経て、1959年副社長就任[16]。 1961年三井石油化学工業(のちの三井化学)社長就任、1962年三井ポリケミカル(のちの三井・デュポン ポリケミカル)社長兼任。 1963年東洋レーヨン(のちの東レ)副社長就任、1971年東レ会長[17] [18]、1977年同相談役。 この間経済団体連合会副会長、日本経営者団体連盟常任理事、経済同友会幹事、日本化学繊維協会会長、東京12チャンネル(現・テレビ東京)取締役、日本国際貿易促進協会顧問[19]、通商産業省産業構造審議会委員、繊維工業審議会委員、文部省国語審議会委員、伊勢神宮崇敬会東京都本部長なども務めた。 1974年国鉄監査委員会委員長就任、1980年再任。日本国有鉄道の再建のために尽力した[20]。 1979年勲一等瑞宝章受章。 元大蔵省事務次官・元国鉄総裁の高木文雄が安居の葬儀委員長[22]。 高木文雄、佐藤栄作、大平正芳、森永貞一郎、澄田智、盛田昭夫、森泰吉郎、茂木啓三郎、井伊直愛、春木榮らと親交を結ぶ[23]。 「…施設方針演説で増税の必要性を強調…こういうさなかのある夕、友人四、五名で大平さんと中国料理を共に…少し遅れてお見えになった大平さんを見て私は思わずハッとした。三十年来のおつきあいで初めて見る苦渋に満ちた…」と元内閣総理大臣大平正芳との交流を回想している[24]。 系譜長男は、安居伸浩(1931年、慶應義塾大学卒、王子製紙勤務)。同妻は、川喜田壮太郎(百五銀行頭取・会長)の長女・渚(1941年、立教大学卒)。川喜田家の始祖は豊臣家に仕へ、大阪落城後伊勢に逃れ商に帰し、代々久太夫を襲名してきた。川喜田壮太郎 は、1879年に1歳で川喜田家16代当主となった久太夫(三重県多額納税者・三重県会議員・百五銀行頭取・川喜田商店社長・陶芸家の川喜田半泥子)の長男。 関連項目
関連人物注釈
出典
|