矢橋 龍太郎(やばし りゅうたろう、1926年(大正15年)9月18日[2] - 2001年(平成13年)7月7日[2])は、日本の実業家。矢橋工業・会長、矢橋林業社長等を務めた矢橋コンツェルン総帥。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家[注釈 1][3][4][5]・本家・当主。大垣市功労章受章者。
略歴
1926年赤坂銀行常務の矢橋龍吉と際(岐阜、原松蔭の三女)の長男として生まれる[4]。妻は、愛知県半田市・ミツカン酢創業家・中埜家の6代目又左衛門(「中埜又左衛門」を参照)の二女 ・茅子(1929年生)[3][6]。
矢橋工業[7]入社後、同取締役、同副社長を経て、1953年矢橋林業社長、1961年三星礦業社長、1973年矢橋工業社長、1979年矢橋工業会長に就任する[4]。
大垣市の教育の振興に貢献[8]。1985年大垣市功労章受章[9]。
「金生山」に関する著作がある(下記「著書」を参照)。
人物
龍太郎は、陶芸家の荒川豊蔵との関係を通じて懇意になったとされる白洲正子を、1986年5月に、「矢橋家の牡丹園」に招待。正子は、龍太郎の生き方に関心をもち、その年の暮れにも寒牡丹を見に再び矢橋家を訪れている。誰もいない園内に伊吹おろしにさらされた寒牡丹が寒さに抵抗して見事に咲いている。「・・・ほんとうの美しさは、寒さに耐えて咲く寒牡丹にあることを、私は身にしみて知ったように思う」と。[10]
著作
家系図
「矢橋家家系図」によれば、矢橋家(惣本家・本家・南矢橋・北矢橋)は、嵯峨天皇・源融(紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補)まで遡る[注釈 1][4][5][11][12][13]。
遠縁[17]:所郁太郎(実父・矢橋亦一、養父・所伊織)(大垣藩の生まれ、適塾塾頭、暗殺者に襲われた元勲・井上馨を治療した医師、幕末の志士、高杉晋作の参謀、長州藩遊撃隊軍監、従四位追叙)
外部リンク
注釈
- ^ a b 「……矢橋家は俳人松尾芭蕉も泊まった県内屈指の旧家。「日本外史」の著者・頼山陽も来遊したり、吉田茂の側近だった白州次郎の妻で随筆家の白州正子も幾度となく同家の牡丹園を訪れている。
先祖は嵯峨天皇から分かれた氏族・嵯峨源氏までさかのぼる。大垣の赤坂に住み、矢橋の姓を名乗ったのは彦十郎から。矢橋総本家初代当主だ。
5代目から藤十郎を襲名し、初代藤十郎は木因に師事し木巴と号し俳句をたしなんだ。2代目は、号を李明、4代目は丹陽、5代目(彦十郎を名乗る)は鳥江。6代目で再び藤十郎を名乗り号は十衛といった。
初代藤十郎の五男・三郎兵衛は分家。号は李仙。二代目、三代目も赤山、赤水と号して漢詩を作り、いずれも遺稿がある。矢橋家は、歴代、俳句や漢詩をたしなんできたのだ。
矢橋家が起業の道を歩むのは、三郎兵衛の6代目・宗太郎から。長男は敬吉で、当主は龍吉、龍太郎へと継がれ、林業、石灰業を興した。龍太郎はミツカングループの創業家、中埜家の7代目又ェ衛門の次女・茅子と結婚。その長男が現在、矢橋ホールディングスを率いる龍宜(52)だ。
敬吉の次男は次郎。その孫が慎哉(66)でグループ会社・矢橋工業の社長を務める。父の宗一も同社の会長を務めた。
(中略)
一方、宗太郎の五男・亮吉は分家し、後に1人3業(金融、大理石、育英事業)を成し遂げる。長男・太郎が早世し、次男の次雄が亮吉を襲名。太郎の孫・修太郎(66)が次雄の養子となり矢橋大理石の社長を務める。
亮吉の四男・五郎は、関ケ原製作所や関ケ原石材を興した。関ケ原製作所は現在、五郎の三男・昭三郎(74)が社長を経て会長を務めている。関ケ原石材は、長男・謙一郎が社長を務めた後、その長男・達郎(52)が社長を経て会長を務める。
まだまだ矢橋家は逸材を輩出している。亮吉の長男・太郎の娘婿の浩吉は、イビデンの社長(1973年9月就任)、会長(81年6月就任)を務めた。五男・六郎は、洋画家で大理石モザイク壁画も手掛け日本近代洋画の革新に重要な役割を果たした。次女・孝子は、十六銀行の第4代頭取を務めた桑原善吉に嫁いだ。
(中略)
宗太郎の三男・友吉の孫・徳太郎は、岐阜天文台の副理事長や愛知淑徳短大の教授を務め世界一の精度を誇る「矢橋式日時計」を考案した。……」(岐阜新聞社2013年8月20日[3])
出典
関連事項