原 乙彦(はら おとひこ、1925年1月1日 - )は、日本の実業家。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家[注釈 1][1][2][3][4][5][6]・本家の出身。大日本紡績(ユニチカの前身)が第二次世界大戦後における海外進出の一番手として名乗りをあげた際にサンパウロ現地において準備にあたった。元ユニチカ通商 (現・ユニチカトレーディング) 社長。
略歴
1925年、美濃赤坂にて、父・矢橋次郎と母・絹の三男として生まれる[2]。矢橋家は美濃赤坂の旧家・素封家で[1]、一族で赤坂銀行(現・十六銀行赤坂支店[7])などを経営していた。乙彦は大垣中学校[8]から関西学院大学予科[9]へ進む。1948年関西学院大学商経学部卒業[10]。泉南の素封家原甚之丞の娘婿となる[11][10]。
その後、大日本紡績サンパウロ駐在員としてブラジルにわたる。当時鐘淵紡績・東洋紡績など紡績各社は中南米への進出計画を進めており、「三大紡績のひとつ」で「日本の繊維産業を支え続け」[12]てきた大日本紡績は、原吉平社長が1957年10月7日ブラジルを訪問し、先着していた南興物産(株)会長の原田立之祐と合流して現地を視察、その翌年の6月には日紡繊維商工有限会社をブラジル国法人として設立、「戦後における海外進出の一番手として名乗りをあげ」ることになるが[13]、同社による当該ブラジル進出にあたり、「ブラスコット有限会社[14][15][16]の副支配人として出向し、現地事情に精通していた」乙彦らがその準備にあたった[17]。サンパウロ駐在時、1960年、第3回世界バレーボール大会(女子)がブラジルで開催され、初出場ながら強豪国を撃破して準優勝した東洋の魔女(日紡貝塚/ニチボー貝塚女子バレーボールチームのニックネーム)の訪問・励ましを受ける[注釈 2]。
大日本紡績は、前述の東洋の魔女が東京オリンピックで金メダルに輝いた1964年にニチボ-と社名を変え、さらに1969年日本レイヨンと合併してユニチカとなり、乙彦は、1973年、ユニチカ通商(前身は、上述・南興物産)に入社することになり、専務取締役[18][19]を経て、同社の代表取締役社長に就任[注釈 3]、大阪染工[20]監査役を兼任した[21]。ユニチカ通商社長を退任した後は、大阪染工常任監査役、ユニチカ通商参与を務めた[10] 。
人物
趣味はゴルフ[10]。
家系図
(出典[1][2][3][4][5][18][19][22][23])
【実家(抄)】
「矢橋家家系図」によれば、矢橋家(惣本家・本家・南矢橋・北矢橋)は、嵯峨天皇・源融(紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補)まで遡る[注釈 1][3][24][25][26]。
遠縁[30]:所郁太郎(実父・矢橋亦一、養父・所伊織) (大垣藩の生まれ、適塾塾頭、暗殺者に襲われた元勲・井上馨を治療した医師、幕末の志士、高杉晋作の参謀、長州藩遊撃隊軍監、従四位追叙)
【養家(抄)】
【母方(抄)】
関連人物
関連項目
注釈
- ^ a b 「……矢橋家は俳人松尾芭蕉も泊まった県内屈指の旧家。「日本外史」の著者・頼山陽も来遊したり、吉田茂の側近だった白州次郎の妻で随筆家の白州正子も幾度となく同家の牡丹園を訪れている。
先祖は嵯峨天皇から分かれた氏族・嵯峨源氏までさかのぼる。大垣の赤坂に住み、矢橋の姓を名乗ったのは彦十郎から。矢橋総本家初代当主だ。
5代目から藤十郎を襲名し、初代藤十郎は木因に師事し木巴と号し俳句をたしなんだ。2代目は、号を李明、4代目は丹陽、5代目(彦十郎を名乗る)は鳥江。6代目で再び藤十郎を名乗り号は十衛といった。
初代藤十郎の五男・三郎兵衛は分家。号は李仙。二代目、三代目も赤山、赤水と号して漢詩を作り、いずれも遺稿がある。矢橋家は、歴代、俳句や漢詩をたしなんできたのだ。
矢橋家が起業の道を歩むのは、三郎兵衛の6代目・宗太郎から。長男は敬吉で、当主は龍吉、龍太郎へと継がれ、林業、石灰業を興した。龍太郎はミツカングループの創業家、中埜家の7代目又ェ衛門の次女・茅子と結婚。その長男が現在、矢橋ホールディングスを率いる龍宜(52)だ。
敬吉の次男は次郎。その孫が慎哉(66)でグループ会社・矢橋工業の社長を務める。父の宗一も同社の会長を務めた。
(中略)
一方、宗太郎の五男・亮吉は分家し、後に1人3業(金融、大理石、育英事業)を成し遂げる。長男・太郎が早世し、次男の次雄が亮吉を襲名。太郎の孫・修太郎(66)が次雄の養子となり矢橋大理石の社長を務める。
亮吉の四男・五郎は、関ケ原製作所や関ケ原石材を興した。関ケ原製作所は現在、五郎の三男・昭三郎(74)が社長を経て会長を務めている。関ケ原石材は、長男・謙一郎が社長を務めた後、その長男・達郎(52)が社長を経て会長を務める。
まだまだ矢橋家は逸材を輩出している。亮吉の長男・太郎の娘婿の浩吉は、イビデンの社長(1973年9月就任)、会長(81年6月就任)を務めた。五男・六郎は、洋画家で大理石モザイク壁画も手掛け日本近代洋画の革新に重要な役割を果たした。次女・孝子は、十六銀行の第4代頭取を務めた桑原善吉に嫁いだ。
(中略)
宗太郎の三男・友吉の孫・徳太郎は、岐阜天文台の副理事長や愛知淑徳短大の教授を務め世界一の精度を誇る「矢橋式日時計」を考案した。……」(岐阜新聞社2013年8月20日[1])
- ^ 「(前略)当時ブラスコット有限会社の副支配人として出向し、現地事情に精通していた原乙彦らによってブラジル進出の準備が進められ、いくつかの候補地が選定された。翌35年8月9日いよいよ工場建設の先遣隊として塩塚常務、市居誠一(ニチボーブラジル初代社長)ら5名が現地に向かった。
事前調査による立地条件としては、サンパウロ州のアメリカーナ市周辺が第一候補として挙げられていた。また市当局の熱意と土地提供その他の条件から、9月15日には正式に土地購入の契約が行われた。 工場敷地に選定されたのは、サンパウロ市から車で2時間の地点にある旧牧場の6万5514坪の街道に沿ったところである。第1期工事1万0400錘の建設が急がれたが、ちょうどこの年の10月、第3回の世界バレーボール大会がブラジルで開催され、日本代表チームのコーチとなった大松博文と選手たちが アメリカーナに先遣隊を訪ね、互いに励ましあった。(中略)」(ユニチカ百年史[13])。
- ^ 社長就任時期不詳
出典