塩屋秋貞
塩屋 秋貞(しおや あきさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。飛騨国尾崎城主、のち飛騨国古川城主、越中国猿倉城主。 略歴前半生大永元年(1521年)、誕生。大野郡大八賀郷塩屋村の出身とされるが定かではない[2][注 1]。その姓から元は塩の流通を主体とする馬借であったと考えられており[4]、『大八賀村史』などによると、秋貞は初め越中より塩を仕入れて財を成すと、大八賀郷塩屋村臼本に城を築いて近郷から年貢を取り立てるなど次第に勢力を伸ばし、天文の終わり頃には小八賀郷に尾崎城を築いて居城としたという[2][5]。 秋貞が三木氏の被官となった過程は不明だが、岡村守彦は三木良頼が姉小路家(古川氏)を襲った後、古川城の守将に抜擢されたことで古川周辺に勢力を持つようになったとしており[4]、永禄12年(1569年)に上杉輝虎(上杉謙信)が2月10日付けで秋貞に宛てた書状には、昨年来音信が途絶えていた良頼に対して秋貞に仲介を依頼していることから、秋貞が良頼の重臣であったことが窺われる[6][7] 永禄7年(1564年)、武田信玄の部将である山県昌景が飛騨に侵攻すると、秋貞は千光寺の衆徒とともに戦うが敗れて古川城に退いた[注 2]。『大八賀村史』によると、武田軍の撤退後、三木自綱(姉小路頼綱)に小八賀郷を押領されたため、秋貞は吉城郡塩屋へ居を移したという[10]。 上杉氏と関係を深める越中に進出していた輝虎は一向一揆の抑えとして飛騨の諸将を必要とするようになり、秋貞も三木軍の一員として越中に派遣されるようになる[11][注 3]。元亀2年(1570年)もしくは元亀3年(1571年)4月23日、上杉軍に従軍していた秋貞が突然陣を離脱して猿倉山に立て籠もっているが、飛騨では一向宗の勢力が強かったことから秋貞が一向一揆と戦うことを避けるためであったものと考えられている[13]。 その一方で秋貞は謙信に接近すべく、元亀2年(1570年)10月に家臣の後藤内記(内膳とも)・和耳藤兵衛を謙信に遣わして熊の皮十枚、鉛十斤を、天正元年(1573年)9月には再び後藤を遣わして熊の皮百枚、鉛千斤、真綿三百把を献上している(『飛騨編年史要』)。 また、河田長親が天正元年(1573年)4月晦日付けで吉江資賢に宛てた書状によると、江馬輝盛より信玄が急死したとの注進があったため、秋貞は長親の命令によって飛騨に帰国し情報を集めている[14][15]。 自綱との決別自綱との関係について岡村守彦は、度々越中に派遣されたことで秋貞は上杉氏との交流を深め、後に自綱が織田氏への転向をはかったのに対して秋貞は上杉氏寄りの態度を変えず、後述の謙信急死までは自綱と対立していたことは確実であるとしている[4]。『北越軍談』によると、天正4年(1576年)7月下旬または8月、謙信による飛騨征伐ではその先鋒となって飛騨に侵攻し、三木自綱・江馬輝盛・内ヶ島氏理を降伏させた功により飛騨の目代に任じられたとされるが、自綱が拠っていたという松倉城は当時存在しなかったことから信憑性は薄いとされており、岡村守彦も完全に否定は出来ないものの、謙信による飛騨征伐は創作であるとしている[1][16]。 織田氏に臣従する天正6年(1578年)2月下旬より謙信による上洛の準備が進められ、飛騨でも秋貞を中心に兵が集められていたが(『飛騨編年史要』)[17]、同年3月に謙信が急死したため上洛は立ち消えとなった。また、越中では謙信の死を契機に織田信長の後ろ盾を得た神保長住が入国するなど織田氏の勢力が強まったことから、この年のうちに秋貞も織田方に転向したものと考えられている[4]。 『飛騨編年要史』によると、天正7年(1579年)6月28日、信長の命を受けた自綱が武田氏や上杉氏に与した輝盛や秋貞を攻撃したとされているが、岡村守彦は『飛州志』以外に同様の記述がないことから正確な時期は不明であるとしており、また、輝盛や秋貞討伐が信長にとって何ら意味をなさないことから、この一件は自綱の逆恨みによる復讐戦だと見なしている[18]。 最期天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変によって信長が横死すると、秋貞は佐々成政に臣従した[19]。翌天正11年(1583年)3月2日、秋貞は城生城主・斎藤信利を攻撃するが、斎藤方の救援に応えた上杉景勝の来援によって敗北した。その後、秋貞は飛騨への敗走を試みるが、国境付近の西猪之谷で上杉方の将・村田修理亮に鉄砲で狙撃され、逃亡先の戸谷村で死去した。享年63[20][注 4] 人物
注釈
脚注
参考文献
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