斎藤信利
斎藤 信利(さいとう のぶとし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・旗本。越中国城生城(蛇尾城)主。 出自越中斎藤氏は藤原北家利仁流を称す、越中国婦負郡楡原保[1]一帯に勢威を張った国人。 南北朝時代、桃井直常討伐に功があった祖・斎藤左衛門大夫入道常喜が、文和年間に室町幕府初代将軍・足利尊氏より越中国に領地を賜ったことに始まるとされる。同じ越中国の神保氏とは長らく敵対関係にあったが、天文年間に神保長職に攻められ服属した。 生涯天正元年(1573年)に父・利基が死去したため跡を継ぐ。当初、越後国の上杉氏に臣従していたが、上杉謙信が急死するやいち早く織田信長に誼を通じた。居城の城生城は飛騨国と越中国を結ぶ交通の要地であり、織田氏から家臣・斎藤利治らの軍勢が送り込まれ越中進出の拠点となった。織田軍は天正6年(1578年)の月岡野の戦いで上杉軍に大勝、信利も手柄をあげ、弟・信吉も今泉城を攻略するなど積極的に貢献した。織田信長は斎藤兄弟のこれらの働きを評価し、朱印状を下した。諱の「信」は信長からの偏諱という。 ところが再び上杉氏に接近し、天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発し織田信長が横死すると、斎藤一族は上杉方へ寝返った。上杉景勝と結んで越中一国を支配していた織田重臣・佐々成政に抵抗したが居城を奪われると、義兄である飛騨国の姉小路頼綱を頼り落ち延びた。 その後、頼綱の仲介によるものか佐々成政に仕えて、能登国との国境の要衝である湯山城を守った。成政が没落すると徳川家康に召し出され、下総国や近江国で1500石を給された。 慶長15年(1610年)8月4日、山城国伏見にて死去。享年57。 子孫は江戸幕府旗本として続いた。赤穂事件において、赤穂城引渡目付として遣わされた書院番・斎藤左源太は末裔にあたる。 脚注外部リンク |