吹上宿吹上宿(ふきあげしゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代五街道の1つ、中山道で旅人の休憩場所として利用されていた間の宿(休憩用の町場)[1]であった。また、近辺にて日光脇往還が交差していた。 所在地は、江戸期には東海道武蔵国足立郡吹上郷吹上村[2]。現在の埼玉県鴻巣市にあたる。 吹上の位置間の宿の繁栄吹上は間の宿として発展した。中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて7番目の宿場である鴻巣宿と8番目の熊谷宿との、中間地点に位置する街道沿いの集落(路村)であった吹上村に興った[1][3]。鴻巣宿 - 熊谷宿間は4里6町40間(約16.4 km)と他の宿場に比して距離が開きすぎていたことや[3]、吹上から熊谷の間は長土手で結ばれるなど難所であったため、旅人の休憩地の需要に伴い発生させたものであり[1]、茶店や土産物屋などが軒を連ね小規模ながら間の宿として繁栄した[1][3]。 周辺の街道吹上に関連する近世の交通路は、「第一に五街道の一である中山道、ついで袋村(大字袋)を通る日光脇往還、大芦村(大字大芦)吹上村(大字吹上)を通過する日光火之番街道(日光裏街道ともいう)」がある[4]。 後に北は日光東照宮へ、南は八王子宿付近の八王子千人町に繋がる日光脇往還が整備されると、吹上村は中山道と日光脇往還の追分[3]として交通の要衝となり[5]、吹上は日光脇往還の追分そして中山道の間の宿として発展した。 街道の整備間の宿鴻巣宿・熊谷宿間では遠距離であったため、吹上村は代表的な立場として発達した[6]。立場は、「人足や駕籠などの休息する場所」を指し、宿内の「茶屋と区別するため立場」という。立場は休憩できるが、宿泊は禁じられていた[6]。 『新編武蔵風土記稿』には吹上村の記述があり、「吹上村ハ江戸ヨリ行程十四里……村内二中山道の往還 カゝリテ鴻巣熊谷二宿ノ間ノ宿ナリ。又多摩郡八王子辺ヨリ下野国日光山ヘノ往還モカゝリタリ。民家百余軒多クハ街道の左右に連住ス」とある[7][8]。また、『五街道中細見記』には吹上村のところに旅籠屋の印があることから、「吹上の宿にも中山道の旅人と日光裏街道往来の旅人相手に、旅籠屋が繁昌したもの」とされる[7]。 文政8年(1825年)の『諸国道中商人鑑』には、「菓子卸・飲食・休憩所・小間物など7軒」が紹介され、中には「吹上御本陣門前」の文字が見られる。「近世後期には大名などが休息する茶屋本陣(御小休み本陣)も出現していた」という[6]。 江戸幕府は吹上を「宿駅の制度維持の上から、本宿保護のため間の宿にはいろいろ制限を加えた。間の宿には旅人を宿泊させてはならぬとか、宿場女を置いて客をひいてはならぬなど厳しく取り締まった」という[9]。 一里塚→「中山道の一里塚一覧」も参照
吹上周辺では、「文化年代幕府の道中奉行所が実地の測量や調査を行った上で完成した中山道分間延絵図には、前砂村中山道の両側にはっきり一里塚が描かれ、塚上には榎のよく茂った図」を描かれている[10]。しかし、明治以後、交通機関の発達・道路の拡張により一里塚は取り除かれたが、前砂の一里塚がいつまで残っていたか記録はないという[10]。 本陣吹上の本陣は、「宿駅設置当初からの本陣ではなく参勤交代による諸侯の上府帰国等街道の往来が頻繁となり必要上設けられた」ものである[11]。 吹上の本陣の記録には、「幕末文政年間以後(一八一八~二八)の刊行である、吹上太田家蔵の「中山道商家高名録」に吹上御本陣騎西屋とあり、尚文久元年(一八六一)和宮様御下向御用留にも、吹上村御本陣見分、吹上村御本陣並中山道往還筋出来栄見分、和宮様御下向来ル十一月十二日熊谷宿泊り、翌日吹上村御休み御通與等の記録」があるという[11]。吹上の「御本陣は宿泊の本陣ではなく、御小休みの本陣」であったという[11]。 助郷元禄7年(1694年)、「東海道・中山道の宿場に助人馬を出す村々が割りあてられ、助郷が制度として確立された。この役を負担させられた村々を助郷村または助郷といい、この役を助郷役(勤)と呼んだ。助郷が定められると、助郷村と助郷高を記した助郷帳が下付されたというが」吹上村周辺にはこの記録はないという[12]。 「中山道鴻巣宿・熊谷宿に程近い吹上周辺の村々は助郷村に割りあてられたと思うが詳細な記録は見当たら」ず、部分的な記録が残されている[12]。 交通中山道旧吹上町の町域には、「中山道が南北に通っている。近世の村でこの街道にかかっていたのは、榎戸村・吹上村・袋村などであったが、特に吹上村は、八王子から入間・比企方面をぬけ荒川を渡り、日光方面へぬける往還八王子千人同心道との交差点にもあたっており、宿並みを形成していた」[13]。 吹上は間の宿として発展した。中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて7番目の宿場である鴻巣宿と8番目の熊谷宿との、中間地点に位置する街道沿いの集落(路村)であった吹上村に興った[1][3]。鴻巣宿 - 熊谷宿間は4里6町40間(約16.4 km)と他の宿場に比して距離が開きすぎていたことや[3]、吹上から熊谷の間は長土手で結ばれるなど難所であったため、旅人の休憩地の需要に伴い発生させたものであり[1]、茶店や土産物屋などが軒を連ね小規模ながら間の宿として繁栄した[1][3]。新編武蔵風土記稿によると、「「民家百軒余多くは街道の左右に連坦す」とあり」、中山道の宿場ではなかったが鴻巣宿と熊谷宿の間の宿として発展したという[13] 日光脇往還吹上では、日光脇往還の道筋の一部が通行している。 日光脇往還は、「鴻巣の追分迄は中山道と街道を同じくするが、ここで分岐して脇街道に入り、袋村(吹上町大字袋)・行田・上新郷を過ぎ利根川を川俣の渡しで越し、館林・佐野・栃木・鹿沼・今市と進んで」日光街道に合流する[14]。 川俣には忍藩支配の関所である新郷川俣関所が設けられていた。「日光への通路として、また上州・野州方面に通じる重要な道路であった」という[14]。 日光火之番街道本街道は、「八王子千人同心道」または、 「日光裏街道」ともいわれている[15]。 「日光廟の警備に任ずる八王子千人衆は、…(中略)…毎年五月と十一月には定期的にこの街道を上下して交代し、日光火の番の任に当」たり、「火の番衆の通行は宝永年間(一七〇四~一〇)から明治初年迄続けられた」という[15]。 日光火之番街道は、「八王子・坂戸・そして大芦河岸で荒川を渡って吹上に出、行田で日光脇往還に合して、佐野・栃木・鹿沼・今市に進んで日光街道を経て日光に通ずる街道」である[15]。 名所・旧跡吹上
久下吹上の北に位置する久下に属するものをここに示す。
交通の基本情報隣の宿現代の交通
脚注注釈出典
参考資料文献
ウェブサイト 関連項目
外部リンク中山道六十九次と吹上宿に関連
鴻巣市および名所・旧跡 |
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