吉田喜昭
吉田 喜昭(よしだ よしあき、1937年〈昭和12年〉4月5日 - 2001年〈平成13年〉1月24日)は、日本の脚本家、絵本作家である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13]。日本脚本家連盟信託者[14]。生前は日本放送作家協会会員[1]、東洋大学講師であった[2]。『ムーミン』『昆虫物語 みなしごハッチ』等のテレビアニメーションの脚本家として知られ[1]、『天才バカボン』『ど根性ガエル』『ジャングル黒べえ』『元祖天才バカボン』『ろぼっ子ビートン』ではメイン作家であった[9][13]。 日本映画データベース等で混同されている[5][10][15]、同時代に活動した脚本家の吉田義昭(1932年 - 1989年)は同音異字の別人[2][14]、テレビドラマデータベース等で混同されている[13][16]作詞家・作曲家の古田喜昭(1949年 - )は一字違いの別人[2][17]。 人物・来歴シナリオ修業と実写映画の時代1937年(昭和12年)、岐阜県恵那郡中津町(現:中津川市)に生まれる[1]。雪室俊一によれば、吉田は幼少時に急性灰白髄炎 (小児マヒ)を患い「手足の動きが不自由だった」という[2]。 1956年(昭和31年)前後に岐阜県立中津高等学校を卒業し、東京都文京区白山の東洋大学文学部に進学、やがて同学を卒業する[1]。満24歳になる1961年(昭和36年)8月に発行された『月刊シナリオ』(日本シナリオ作家協会)に掲載された「シナリオ修業の生活と意見」と題する座談会に、北村篤子(1933年 - )[18]、日活の蘇武道夫(生年不詳 - 1983年)[19]、近代映画協会の松田昭三(1928年 - )[20]、段野利世子、松竹の今井金次郎[21]とともに出席しており、同時点ではすでに脚本家としての修業を開始している[22]。記録に残るもっとも早い時期の作品は、国際放映が製作した連続テレビ映画『忍者部隊月光』(1964年 - 1966年)の第66話、1965年(昭和40年)4月9日に放映された『アース・クェイク作戦 前篇』(監督福原博)である[5][6][7][8][9][10][11][12][13]。同番組については途中の参加であったが、続篇の『新忍者部隊月光』も含めて、合計27話を書き、初期の代表作になる[9][13]。1966年(昭和41年)4月27日に公開された石原裕次郎主演の劇場用映画『青春大統領』(監督江崎実生)の脚本に参加、「原案」とクレジットされた[6][7][8][9][10]。 テレビアニメーションの時代1967年(昭和42年)4月1日に放映を開始した連続テレビアニメ映画『かみなり坊やピッカリ・ビー』でアニメ界に進出、同作の終了とともに1968年(昭和43年)4月6日に放映を開始した同じく『ファイトだ!!ピュー太』にも参加、毎日放送の子会社放送動画制作の製作物に脚本を提供した[4][9][13]。『忍者部隊月光』の原作者である漫画家の吉田竜夫(1932年 - 1977年)が竜の子プロダクション(現在のタツノコプロ)で製作した連続テレビアニメ映画『おらぁグズラだど』の放映が1967年10月7日に開始、同作にも脚本家として参加、続いて、東京ムービーが製作、1968年3月30日に放映を開始した同じく『巨人の星』にも参加、吉田は、生涯を通じて、この2社と深く付き合うことになる[9][13]。東京テレビ動画(のちの日本テレビ動画)が設立され、その第1作として製作された連続テレビアニメ映画『夕やけ番長』が1968年10月1日に放映を開始したが、同作にも脚本参加、以降、同社の作品も多く手掛けた[9][13]。同社が唯一製作した劇場用映画『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』(1971年9月24日公開)にも、脚本を提供している[7][8][9][10]。 1971年(昭和46年)9月25日に放映を開始した『天才バカボン』では、「第1話」(第1回)の作家に抜擢、第3話(第2回)、第6話(第3回)と、同作は吉田作品でスタートを切り、吉田は同番組において合計20話を執筆した[9][13]。 従来、学習雑誌等の仕事もしていたが[1][2][3][4]、1976年(昭和51年)7月には、アニメーター、アニメ演出家の出崎統(筆名さきまくら、1943年 - 2011年)が絵を描き、吉田が文章を書くスタイルで絵本『ドングドンとことだま大王』を上梓する[1][3][4]。以降、吉田は脚本家の仕事の傍ら、絵本作家としての仕事もこなしていく[1][2][3][4]。タツノコ作品は、『おらぁグズラだど』に始まり、『ハクション大魔王』、『昆虫物語 みなしごハッチ』、『いなかっぺ大将』、『タイムボカン』と数多く手掛けてきたが、タイムボカンシリーズの第2作である『タイムボカンシリーズ ヤッターマン』では、1977年(昭和52年)7月30日に放映された第31話『ドビンソン・クロースルだコロン』以外は脚本を提供しておらず、同年9月5日に吉田竜夫が満45歳で死去[23]、以降、長らくタツノコから離れた[9][13]。 1980年代に入ると、1980年(昭和55年)10月11日に放映を開始した土田プロダクションの『まんがことわざ事典』、1981年(昭和56年)9月3日に放映を開始したナック(現在のICHI)の『まんが 水戸黄門』といった東京12チャンネル(現在のテレビ東京)作品を手がけている[9][13]。1989年(平成元年)には、『昆虫物語 みなしごハッチ』がリメイクされたが、これに1話(第20話『おじいさんの秘密』)だけ参加している[9][13]。タツノコプロでの仕事は、吉田竜夫の没後、12年ぶりであった[9][13][23]。 『夕やけ番長』、『男どアホウ!甲子園』等の東京テレビ動画作品、『星の子チョビン』等でともにテレビアニメーションの脚本を書くことの多かった雪室俊一は、吉田を「温厚で人当たりもよく、だれからも愛されていた。どんな素材をも器用にこなし、締め切りに遅れることもなかった」と評した[2]。雪室によれば、長年支えられていた妻を亡くした葬儀の日には、吉田は「弔問に訪れた演出家にすがりつき、子どものように号泣して悲しみをぶちまけた」という[2]。晩年、吉田は出身校である東洋大学で講師を務めていたが、2001年(平成13年)に死去した[2]。満63歳没。亡くなったのは、大学の講義を行った冬の日であったという[2]。 フィルモグラフィ特筆以外すべて「脚本」である[5][6][7][8][9][10][11][12][13]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、デジタル・ミーム等での所蔵状況も記した[6][24]。 1960年代
1970年代
1980年代
ビブリオグラフィ
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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