加山恵子
加山 恵子(かやま けいこ、1940年3月23日 - )は、日本の女優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。本名は井瀬 須子(いせ まつこ)[7]、初期芸名は井瀬 昌枝(いせ まさえ)[3][4][5][6][7][8][9]。 人物・来歴東映京都の大部屋女優1940年(昭和15年)3月23日、北海道に生まれる[1][5]。幼少時に第二次世界大戦が始まり、小学校に就学する1946年(昭和21年)4月には、すでに戦争は終わっていた世代に当たる[1][5]。 学歴、前歴等は不明だが、満21歳となる1961年(昭和36年)にはすでに東映京都撮影所におり、同年4月18日に公開された片岡千恵蔵の主演作『さいころ奉行』に「おもん」役を得て、出演していることが記録に残っている[4][5][8]。当時の芸名は井瀬 昌枝、役を得ても脇役、だいたいが端役であったため、多くは記録に残っていない[1][2][3][4][5][6][7][8]。1963年(昭和38年)11月20日に公開された『関の彌太っぺ』(監督山下耕作)、1964年(昭和39年)6月20日に公開された『鮫』(監督田坂具隆)、1965年(昭和40年)5月22日に公開された『股旅 三人やくざ』(監督沢島忠)といった中村錦之助(のちの萬屋錦之介)の主演作に小さな役で出ていたが、『股旅 三人やくざ』の公開前後の同月、白川良夫が代表取締役、山内敏男が取締役本部長を務める新映プロダクション[10]が製作した成人映画『BG物語 好きならあげる』で初めて主役に抜擢される[1][2][3][4][5][6][7][8]。クレジットには本名の井瀬 須子を使用[7]、同作の監督には、前年までは東映京都撮影所に監督として務めていたが独立した大西秀明(1923年 - 没年不詳)が務めた[7][11][12]。同作は、加山にとっては初めての主役であり東映以外の作品への出演であり[1][7]、監督の大西にとっても、初めての独立系作品であった[11][12]。しかし加山はまだ東映に籍が残っており、当時の京都撮影所長であった岡田茂が時代劇のために設立した東映京都テレビプロダクションが、NET(日本教育テレビ、現在のテレビ朝日)のために製作したテレビ映画『新選組血風録』第13話『強襲十津川屋敷』に出演、同作は同年10月3日に放映されている[9]。 独立系成人映画の時代同年11月には、国映が配給した『牝狼』(監督竜神昇)、東京企画が配給した『血と肉と罪と』(監督深田金之助)の2本の主演作と、加山が助演し六邦映画が配給した藤三恵子の主演作『娼婦真紀子抄 砂の穴』(監督深田金之助)の合計3本が立て続けに公開された[4][7][13]。いずれも加山 恵子と改称しての出演である[4][7][13]。『血と肉と罪と』は『血と肉』の題で同時期に六邦映画が配給したともされているが、同作と『娼婦真紀子抄 砂の穴』の2作は、東映京都撮影所の女優であった日高綾子[14]がいずれも企画・出演、同じく深田金之助(1917年 - 1986年)[15]がいずれも企画・監督した作品である[4][7][13]。深田も大西秀明と同じく、前年の撮影所第1次人員整理の際に東映を退社しており、『血と肉と罪と』および『娼婦真紀子抄 砂の穴』は深田が独立系成人映画に踏み出した最初の作品であった[15]。 『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者として、扇町京子、橘桂子、城山路子(光岡早苗と同一人物)、内田高子、香取環、新高恵子、松井康子、西朱実、朝日陽子、火鳥こずえ、華村明子、森美沙、湯川美沙、光岡早苗、路加奈子、有川二郎、里見孝二、川部修詩、佐伯秀男の名を挙げているが、加山には触れていない[16]。田中は、同じくおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、湯浅浪男、宮口圭、南部泰三、藤田潤一、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一とともに深田金之助の名を挙げており[16]、深田の成人映画転向の第1作の主演女優である加山は、黎明期の独立系成人映画の重要な女優と言える。加山はこの後、日高・深田が組んだ『現代悪女伝 ピンクピンク作戦』(同年12月公開)、『砂の穴 情事のからくり』(1966年2月公開)、『快楽の罠』(1967年7月11日公開)の3作に主演した[2][3][4][5][6][7][14][15]。 1966年(昭和41年)4月、プロダクション鷹が製作した扇町京子の主演作『女体標本』(監督木俣堯喬)に助演した後[7]、同年5月には、当時、木俣と提携していた若松プロダクションが製作した『ひき裂かれた情事』(監督若松孝二)に主演[1][6][7]、同作は、加山の代表作とされる[1]。 加山の初主演作を監督した大西秀明は、独立2作目以降「大西孝典」と改称し、同年10月に公開された『女郎妻』から映建工芸での製作・監督を開始しており[11][12]、加山は同作にも主演した[1][2][3][4][5][6][7]。以降、加山は、同社の作品はほとんどの作品に主演、ないしは助演でも出演した[1][2][3][4][5][6][7]。1967年(昭和42年)12月16日に公開された『十一人の侍』(監督工藤栄一)に「芸者」役で端役出演、2年ぶりの東映京都撮影所作品であった[2][3][4][5][6][7][8]。翌1968年(昭和43年)5月1日に公開された『徳川女系図』(監督石井輝男)は、同撮影所が製作したメジャー系成人映画であり、加山は「おゆき」役で出演している[1][2][4][5][6][7][8]。 1969年(昭和44年)2月に公開された『甘きつつ噛む』(監督大西孝典)に主演して以降、同作を最後に作品歴が途切れる[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。同作を製作・監督した大西も、同作を最後に「健康を害して」映画界を引退している[11]。同時期に東映から独立した深田金之助は、加山が主演した『快楽の罠』を最後に2年前にすでに沈黙している[15]。以降、加山の消息は伝えられておらず、存命であれば、2015年(平成27年)には75歳の高齢である[1][5]。 再評価2010年(平成22年)8月27日 - 同29日、神戸映画資料館で行われた竹中労の『日本映画縦断』にフォーカスした「竹中労の仕事 パート1」の特集上映で、加山の出演作『欲情の河』(監督木俣堯喬、1967年)が16mmフィルム版の上映用プリントで上映された[17]。 フィルモグラフィ特筆(「井瀬昌枝」「井瀬須子」)以外すべて「加山恵子」名義、「出演」である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][13][18][19]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[3][20]。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
|