谷口朱里
谷口 朱里(たにぐち しゅり、1941年11月29日 - )は、日本の女優、元ファッションモデルである[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16]。名の読みは「じゅり」「あかり」とする資料も存在する[8]。本名は平沢 孝絵(ひらさわ たかえ)、初期芸名水原 リエ(みずはら リエ)[1][2][12]。伊藤道郎のモデルクラブ「すみれモデルグループ」出身のモデルであり、若松孝二が製作、大和屋竺が監督した『裏切りの季節』に主演したことで知られる[1][2][3][5][14]。奥野信太郎のエッセイ『女へんの話』に登場することでも知られる[17]。のちに新劇女優に転向した[1][2][18]。 人物・来歴ファッションモデルから女優へ1941年(昭和16年)11月29日、日本の第二次世界大戦参戦を目前とした時期、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草地区)に生まれる[1][2][12]。終戦を迎えたときには満3歳であった[1][2][12]。 1960年(昭和35年)3月、東京都立紅葉川高等学校を卒業する[1][2]。同校卒業後、伊藤道郎が主宰する「伊藤道郎俳優養成所ファッションモデル養成コース」に入所する[1][2]。伊藤は、翌1961年(昭和35年)11月3日に死去しているが[19]、伊藤が手がけ、松田和子らを育てた文化服装学院系のモデルクラブ「すみれモデルグループ」(S.M.G., 1952年設立)に所属した谷口は、ファッションモデルとしての活動を開始した[1][2]。その後、第一協団(代表・浅田健三)に参加、俳優に転向した[1][2]。1965年(昭和35年)6月29日に公開された、扇町京子主演の成人映画『色欲のもつれ』に水原 リエの名で出演し、映画界にデビューした[1][2][16]。同年8月に公開[5](9月公開とも[14])された『密戯』(監督向井寛)で主演する際に谷口 朱里と改名、以降、この名で定着する[1][2][3][4][5][6][8][9][10][11][12][13][14][15][16]。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者として、扇町京子、橘桂子、城山路子(光岡早苗と同一人物)、内田高子、香取環、新高恵子、松井康子、西朱実、朝日陽子、火鳥こずえ、華村明子、森美沙、湯川美沙、光岡早苗、路加奈子、有川二郎、里見孝二、川部修詩、佐伯秀男の名を挙げているが、谷口の名は挙げられていない[20]。しかしながら谷口は、同様に黎明期のおもな脚本家・監督として挙げた人物のうち、1965年という初期の時期に、向井寛の第3作『密戯』のほか、藤田潤一が岡野進の名で監督した第2作『情怨の女子大生』(同年11月公開)、あるいは福田晴一の成人映画転向第2作『寝がえり』(1966年5月3日公開)に主演しており[1][5][14]、独立系成人映画の黎明期の女優であるといえる[1][3][14]。 1966年(昭和41年)に創刊された成人映画の専門誌『成人映画』第3号の表紙に起用されたほか[21]、同年12月に発行された映画批評誌『映画評論』が選んだ「おピンク映画女優ベストテン」では、1位・内田高子、2位・新高恵子、3位松井康子という並びのなかで、谷口は第9位にランクインした[22]。同年6月[5](12月13日とも[14])に公開された大和屋竺・若松孝二の『裏切りの季節』に主演[1][3][5][14]、その熱演は高く評価され[1]、『映画評論』は同作を「上半期日本映画最高の収穫」として特集を組んでいる[23]。同年9月、国映が香取環、松井康子、清水世津、可能かず子、飛鳥公子、美矢かほる、奈加公子、桂奈美、橘桂子といった成人映画スター女優を結集した『悲器』(監督湯浅浪男)を公開、谷口もこれに出演した[14][13]。1967年(昭和42年)6月29日に放送されたテレビ番組『ヤング720』第205回にザ・ビーバーズ、山本リンダらとともにゲスト出演している。1968年(昭和43年)3月30日に公開された『続・決着』(監督石井輝男、製作東映東京撮影所、配給東映)に出演し、メジャーデビューも果たす[10][11][12][13]。同年7月30日に放映を開始した大映テレビ室製作、天知茂主演による連続テレビ映画『夜の主役』において、同年10月22日に放映された第13回(監督鈴木敏郎、脚本佐々木守)に、ホキ徳田、白石奈緒美らとともにゲスト出演している[15]。当時、専門誌『成人映画』の編集長であった川島のぶ子は、「美しいプロポーションと個性的なマスクで人気を得た」「前向きの行動派としてやる気満々だった」と評する[1]。 同年、映画界を引退し、新劇の劇団「人間座」(代表・江田和雄)に加入する[1]。記録に残る同年最後の映画は、12月に公開された主演作『亀裂』(監督木俣堯喬、製作プロダクション鷹)であった[14]。ただしこの時期の作品記録が掲載されている『映画年鑑 1973』において、独立系の映画作品については監督名や製作・配給会社名以外記載されておらず、この時期の出演者が概して不明である[6]。『日本映画俳優全集・女優編』の川島のぶ子の記述によれば、「舞台に数回出演したが、その後、芸能界から完全に身を引いた」という[1]。同年11月1日 - 同11日に新宿文化劇場(現在跡地にシネマート新宿)で上演された石堂淑朗の戯曲『血塗られし胎内列車に乗り合わせる三人半』(演出江田和雄)、同年12月17日 - 同21日に日本青年館ホールで上演された栗田勇の戯曲『詩人トロツキー』(演出江田和雄)に出演した記録が残っている[18]。 1970年代に入ってから、1971年(昭和46年)3月27日審査・4月公開の『近世毒婦伝 少女地獄責め』[10][14]、1975年(昭和50年)6月公開の『女のいけにえ』という2作の向井寛監督作に出演した記録がある[14]。以降の消息は知られておらず、存命であれば2014年(平成26年)には満73歳である[1][2][12]。 再評価2001年(平成13年)8月に東京国立近代美術館フィルムセンターで行われた「日本映画の発見VI 1960年代(2)」の特集上映で、『裏切りの季節』が35mmフィルム版上映用プリントで上映された[24]。 2009年(平成21年)3月14日 - 同年5月15日にラピュタ阿佐ヶ谷で行なわれた「60年代まぼろしの官能女優たち」の特集上映で、『悲器』(監督湯浅浪男、1966年、5月9日 - 同15日)が16mmフィルム版上映用プリントで上映された[25]。同年9月11日 - 同13日に神戸映画資料館で行われた「60年代・独立プロ伝説 西原儀一と香取環 前編」特集上映で、『あまい唇』(監督千葉隆志、1966年)が16mmフィルム版上映用プリントで上映された[26]。2011年(平成23年)5月14日 - 同年7月15日にラピュタ阿佐ヶ谷で行なわれた「60年代まぼろしの官能女優たち PART II」の特集上映で、『あまい唇』(5月21日 - 同27日)が16mmフィルム版上映用プリントで上映された[27]。 フィルモグラフィクレジットはすべて「出演」である[1][2][3][4][5][6][8][9][10][11][12][13][14][15][16]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵・現存状況についても記す[9]。 1965年
1966年
1967年
1968年
1970年代
ビブリオグラフィ
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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